ドイツの写真家夫妻。夫ベルント・ベッヒャーBernd Becher(1931―2007)はジーゲン生まれ。第二次世界大戦後、1950年にまず故郷で装飾画家としての修業を終え、1953年にはシュトゥットガルトの美術アカデミーに入学。1957年にデュッセルドルフに移り、同地の美術アカデミーでタイポグラフィの研究を行う。そのころベルリンで写真を修得したポツダム生まれの写真家ヒラ・ボベザーHilla Wobeser(1934―2015)と出会う。2人は1950年代末より写真の共同作業を始め、1961年に結婚。彼らの最初の作品集は『匿名的彫刻――工業的建築物のタイポロジー』と名づけられ、1970年に出版された。ベルントは1976年に、デュッセルドルフの美術アカデミーに初めて設置された写真クラスの教授となり、ヒラとともに指導にあたる。
2人は大型カメラを用いてドイツ、オランダ、フランス、ベルギー、イギリス、そしてアメリカなどの国々で、採掘塔、給水塔、溶鉱炉、冷却塔、精製工場、サイロなど工業時代特有の建築物や住宅を厳密な手法で撮影しつづけた。その方法は首尾一貫しており、被写体は画面の中心に置かれ、少し高めの視点から撮られている。また、撮影は、被写体に最も均一に光がいきわたる曇天の条件下で行われている。画面は、一般の芸術的写真によく見られるパースペクティブの強調や、ドラマチックな光の効果もない即物的なイメージである。作品の展示では、単独で並べることもあるが、たいていは個々の写真を比較可能な形に四つ組、六つ組、九つ組などのグリッド形に並べるという手法をとった。
彼らの写真は、単にその被写体を客観的に記録するために撮られたのではなかった。約40年にわたるプロジェクトの根底には、機能以外は時代と場所も形もそれぞれに異なる個々の被写体を、全体として比較可能なものにするという壮大なビジョンが仕組まれていた。そうした比較の視座は、最初の作品集の副題に見られる「タイポロジー」という言葉に示されている。タイポロジーとは、ある共通のクラスやタイプの構成員を集めたものもしくはその方法のことだが、ベッヒャー夫妻の場合は、ある一つの種類の工業建築物(例えば採掘塔)のいくつかの写真を組み合わせ、比較可能な形で互いに関係づけることによって生まれる写真の複合体を意味する。その際撮影は、時代と地域を越えて比較が可能になるように、厳密な意味での「正面」あるいは「正面に対して45度」が保たれている。
彼らの被写体は、稼働中のものもあるが、ほとんどが工業時代の遺跡ともいうべき機能的な建築物である。ベッヒャー夫妻が採集した膨大な画像は、一見すると、産業の歴史に関する考古学的な記録資料のようにも思える。しかし、彼らの仕事は、その独自の撮影方法と展示手法の点で、写真の領域においてではなく、まず、同時代の現代美術の文脈、なかでも1960年代から1970年代にかけて現代美術を席巻したコンセプチュアル・アートとミニマル・アートの文脈で高い評価を受けた。厳密な方法論に裏づけられた簡潔な形態の写真的描写が、これらの美術動向に共鳴するものと考えられたからであった。
ベッヒャー夫妻の仕事は、戦後の美術の世界で、絵画的イメージや主観的なイメージに従属することなく、メディアの独自性を貫きながら写真による芸術作品が可能であることを先駆的に示した点で画期的であった。また、デュッセルドルフの美術アカデミーでの教育活動をとおして、彼らのもとからトーマス・シュトゥルート、トーマス・ルフ、アンドレアス・グルスキーなど、1980年代以降の写真状況に大きな影響力を及ぼした国際的な作家たちを輩出したことも、2人の功績の一つである。今日、現代美術の展覧会にさまざまな写真作品が展示されることは当然のことと受け取られているが、活躍するベッヒャー夫妻の教え子たちも含めて、そうした状況を切り拓いた功績は大きい。2002年、オランダの権威ある文化賞エラスムス賞が夫妻に授与された。
[深川雅文]
『大貫敦子訳『給水塔』『溶鉱炉』(ともに1992・リブロポート)』▽『Anonyme Skulpturen; eine Typologie Technischer Bauten (1970, Art Press Verlag, Düsseldorf)』▽『Födertürme, Chevalements, Mineheads (1985, Schirmer/Mosel, München)』▽『Gasbehälter (1993, Schirmer/Mosel, München)』▽『Grundformen (1993, Schirmer/Mosel, München)』▽『Bernd und Hilla Becher Festschrift Erasmus Preis 2002 (2002, Schirmer/Mosel, München)』
ドイツの医・化学者、重商主義者。幼いときから諸国を遍歴し独学する。マインツ選帝侯侍医(1663)を皮切りにドイツ諸侯に仕え、技術センター設立、教育改革、東洋交易会社設立など産業振興を図る。1679年イギリスに渡り、そこで死去する。化学や医学、神学、政治など広範囲にわたる著述を残す。化学者としては、シュタールのフロギストン説の源泉となったほかに、アルコールと硫酸からのエチレンガスの生成、海砂からの金抽出、石炭からコークスおよびタールの生成の業績がある。主著『地下の自然学』(1667)において、元素は空気、水、土であり、地下物質は3種の土、すなわち、実質を担う「ガラス性」、色と燃焼を担う「脂肪性」、形・臭(にお)い・重さを担う「流動性」の土からなるとした。脂肪性の土はパラケルススの「硫黄(いおう)」に由来し、シュタールはこれをフロギストンと改名し、燃焼その他の化学現象の本質とした。
[肱岡義人]
ドイツの詩人。ミュンヘンの裁判官の家に生まれる。学生時代から詩作を始め、表現主義運動の代表的雑誌『アクチオーン』への寄稿や、詩集『滅亡と勝利』(1914)などによって、市民社会に反抗する若い文学世代の旗手となった。また早くから政治意識に目覚め、第一次世界大戦に反対して、1917年には独立社会民主党に加入し、スパルタクス団を経て19年には共産党員となった。彼の歩みは、ドイツのプロレタリア革命文学の消長と問題性を体現するものであった。ワイマール共和制期には反逆罪で逮捕されたりしながらも、28年に結成されたドイツ・プロレタリア革命作家同盟の中心人物として活躍する。このころの作品に詩集『ぼくらの時代の人間』(1929)や、ソ連の社会主義建設をたたえた叙事詩『偉大な計画』(1931)などがある。ナチス時代にはモスクワに亡命して反ナチス運動に従事するかたわら、自伝小説『別れ』(1940)などを書いた。45年東ドイツに帰り、文化行政面の各種の要職を務め、数多くの詩作品のほかに『詩の擁護』(1952)、『詩の原理』(1957)などの文学論も著した。
[山口知三]
『篠原正英訳『ベッヒャー選集』全10巻(1953・光文社)』▽『高原宏平訳『ぼくらの時代の人間』(1955・創元社)』
ドイツの詩人。ミュンヘンに裁判官の息子として生まれ,哲学と医学を学ぶ。青年期,ベルレーヌ,ボードレールなどの影響を受けて前衛的な詩を作り,詩集《滅亡と勝利》(1914)で表現主義のリーダーとなる。1917年ロシア十月革命に共感し共産主義への信念を深める。28年ドイツ革命作家同盟の設立に参加,書記長となり,機関誌《リンクスクルベ》に拠ってファシズムとたたかう。33年亡命。ヨーロッパ各地を経てソ連に入り,35年以後反ファシズム雑誌《国際文学》の編集に携わる。戦後いち早く帰国し,詩作を続けるとともに文部大臣など要職を歴任し,文化・芸術分野での活動を通じて民主ドイツの再建に力をつくす。円熟期の作品は豊かな抒情とヒューマニズムにあふれた傑作が多く,《ドイツ民主共和国国歌》(1949)のほか,詩集《遠い幸福--近く輝き》(1950),《ドイツのソネット》(1952),《美しいドイツの故郷》(1956)など。レーニン平和賞受賞。
執筆者:小西 悟
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