ベーチェ(英語表記)veche

改訂新版 世界大百科事典 「ベーチェ」の意味・わかりやすい解説

ベーチェ
veche

中世ロシアの諸都市で開かれた人民による集会。〈民会〉と訳されることもある。11世紀後半から12世紀に,キエフロストフリャザンスモレンスクなど,多くの都市で随時開かれたが,ノブゴロドの民会が最も名高い。古ゲルマン人の会議(民会)などと同質な部族制期のスラブ人の人民集会に由来するが,ロシア諸公国の分立期には,都市住民(周辺農村住民を含む)の臨時の議決機関として,公や貴族の支配権力と不即不離の新しい性格をもつようになる。民会は,公邸内の広場や聖堂前の広場で開催され,公の追放招致,市長官・主教などの選出,和戦の決定,条約・法典の承認,特権の付与などを賛否叫び声の大きさで決めた。13~14世紀になると,キプチャク・ハーン国の間接支配や公権力の伸張などにより消滅していく。残ったノブゴロドやプスコフの民会は,有力貴族の党派争いの場に転化したが,都市の自主独立のあかしとして機能しつづけた。民会招集の〈鐘〉の音は,後世長く人民の自由の象徴となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベーチェ」の意味・わかりやすい解説

ベーチェ
べーちぇ
вече/veche ロシア語

古代・中世スラブの民会。とくにロシアのそれが名高い。その起源は氏族制社会にさかのぼると考えられるが、ロシアの場合もっとも発展したのは11~12世紀の都市、とくにノブゴロドやキエフ(現、キーウ)などの大都市においてである。審議事項は、公の招聘(しょうへい)と追放、市長・主教・千人長などの選出と更迭、戦争と講和の決定、他の地方との条約締結、土地や特権の付与、諸法典の採択などであった。裁判・行政問題は普通民会の審議事項には入らなかった。審議方法は大ざっぱな手順があったのみで、少なくとも初期には表決は行われず、参加者の賛否の叫び声の大きさによって決定が下されたと考えられている。民会は、中世ロシアにおける「都市民主制」のよき表現であったといえるが、現実には封建階級が公権力を制限する手段として利用することが多かった。民会は14世紀以降、諸公権力の強化とともにしだいに意味を失っていった。

[栗生沢猛夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベーチェ」の意味・わかりやすい解説

ベーチェ
veche

古代~中世ロシアの民会。 10~15世紀にかけて,キエフ,ノブゴロド,プスコフ,ウラジーミルなどの諸公国に存在し,年代記に出てくる最も古いベーチェの記述は,ベルゴロードの 997年,ノブゴロドの 1016年,キエフの 1068年にさかのぼる。ベーチェは軍事指導者,主教,行政官などを任免し,戦争や平和を決議し,法律を制定し,土地の配分や封建的特権などの問題を決めた。公の権力の強化とともに,14世紀末には招集されなくなり,1478年にノブゴロドが,1510年にプスコフがモスクワ大公国に併合されるに及んで,ベーチェはまったく廃止された。民会といっても実権は大商人や貴族の上層階級が握っていたのであって,民衆に主権があったわけではなかった。

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世界大百科事典(旧版)内のベーチェの言及

【キエフ・ロシア】より

…しかし,11世紀の昔,ブレーメンのアダムが〈コンスタンティノープルの競争相手〉とたたえた国際商業都市としての繁栄は衰えながらもなお続き,13世紀半ばのモンゴル人の侵攻を迎えることになる。
[社会と文化]
 キエフ国家の諸都市では,〈民会(ベーチェ)〉がソフィア大聖堂や公の館の広場で随時開かれ,都市民が自由に参加した。キエフでは12世紀半ばになると民会の活動は目だたなくなるが,ノブゴロドでは同じころに最盛期を迎え,貴族・在地領主と民衆の合議機関として長く機能した。…

※「ベーチェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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