マイトナー(読み)まいとなー(その他表記)Lise Meitner

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マイトナー」の意味・わかりやすい解説

マイトナー
まいとなー
Lise Meitner
(1878―1968)

オーストリア生まれのスウェーデンの物理学者。ウィーン大学を卒業し、ベルリン大学に移り、M・プランク助手となった。1907年からO・ハーンの下で放射能の研究を開始した。ハーンやその助手F・シュトラスマンとの共同研究は、彼女がナチス迫害から逃れるためコペンハーゲンに移るまでの30年間続けられた。その成果は、β(ベータ)放射性元素ウラン239、プロトアクチニウム233などの人工放射能の発見として結実した。コペンハーゲンのN・ボーアの研究室に移って数か月後、ハーンとシュトラスマンがウランを中性子で放射した際の生成物中に放射性バリウムを発見したという報告を知り、フリッシュOtto Robert Frisch(1904―1979)とともに「核分裂」という説明を与え、フェルミらによって追試実験が取り組まれることとなった。のちにスウェーデンのストックホルム原子核研究所に移り、原子核研究を続けながら若い研究者の養成にあたった。今日この研究所はマイトナー研究所とよばれている。

[小林武信]

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化学辞典 第2版 「マイトナー」の解説

マイトナー
マイトナー
Meitner, Lise

オーストリア(ユダヤ系)の核物理学者.オーストリア・ウィーン生まれ.1901年ウィーン大学入学,L. Boltzmannのもとで学ぶ.1906年学位取得,1907年ベルリン大学に移り,M. Planck(プランク)の助手となり,O. Hahn(ハーン)と共同研究をはじめる.1912年カイザー・ウィルヘルム協会化学研究所(Kaiser-Wilhelm-Institut für Chemie)の開設にともない,ともに異動して,1918年から同所放射科学・物理部門の長(Hahnは化学部門長)を勤め,1918年Hahnとともにピッチブレンド中にプロトアクチニウム(231Pa)を発見,1934年E. Fermi(フェルミ)がウランの中性子照射で見いだした放射性元素の研究をHahn,F. Strassmannと開始したが,1938年ヒットラーの独襖合併によりスエーデンに亡命を余儀なくされた.Hahnとの連絡はとり続け,Hahnがウランの中性子照射から検出したバリウムが核分裂の結果であることを正しく解釈した.HahnとStrassmannは,1939年1月,かれらの実験結果をNaturwissenschaften誌に発表した.Meitnerが著者名から抜けているのは,政治的考慮からとされるが,HahnがMeitnerの果たした役割を過小評価したためともいわれる.Meitnerも同年,甥の物理学者Otto R. Frischと連名でNature誌に3報を公表し,そのなかで,この現象をはじめて核分裂Nuclear fissionとよんだ.1944年Hahnはノーベル化学賞を受賞したが,Meitnerが入っていないのはノーベル賞委員会の失策とする批判が強く,後年109番元素が彼女の業績の重要さを認めてマイトネリウムと命名された.1938年以降,Meitnerはスエーデン・ノーベル実験物理学研究所に所属していたが,正式のタイトルもなく不遇であった.1947~1960年スエーデン王立工科大学教授を務めた.

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改訂新版 世界大百科事典 「マイトナー」の意味・わかりやすい解説

マイトナー
Lise Meitner
生没年:1878-1968

スウェーデンの女性物理学者。オーストリアのウィーンに生まれ,1901年ウィーン大学に入り物理学を学んだ。05年に不均一物質中での熱伝導についての研究で学位を取得,その後07年にはベルリンに移りM.プランクの下で理論物理学を学んだ。12年カイザー・ウィルヘルム化学研究所に入り,O.ハーンと共同で放射能の研究に従事,17年ウランの崩壊生成物の中から91番元素プロトアクチニウムを発見した。その後単独で,β線のスペクトルとγ線との関連について研究したが,これらの結果はβ崩壊に関するパウリの中性微子仮説提出を促すことになった。34年から再びハーンと共同してウランへの中性子照射実験を行い,その分析から超ウラン元素の生成を推定した。38年7月,ナチスの迫害からのがれるためドイツを脱出し,オランダ,デンマークを経てスウェーデンに亡命した。ドイツで実験を継続していたハーンから,ウランに中性子を照射したときの生成物中に放射性のバリウムが検出(1938)されたとの知らせを受けると,甥のフリッシュOtto Robert Frisch(1904-79)とともにバリウム生成を解明するために,N.ボーアによって提唱されていた原子核の液滴モデルを使用して39年核分裂の概念を提出した。第2次世界大戦中は,原爆開発研究への参加要請を拒否してノーベル研究所で働き,47年に退職した。60年にはイギリスに移り,90歳の誕生日を前にその地で死んだ。
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百科事典マイペディア 「マイトナー」の意味・わかりやすい解説

マイトナー

オーストリア出身のスウェーデンの女性物理学者。ユダヤ系。ウィーンに生まれ,ウィーン大学で学び,1907年ベルリンに移ってO.ハーンのもとで放射能を研究。1917年ハーンとともにプロトアクチニウムを発見。1926年ベルリン大学教授。E.フェルミの研究に刺激され,ハーン,F.シュトラスマンとともにウランを中性子で照射したとき起こる変化を追究中,1938年ドイツがオーストリアを併合したためストックホルムに脱出。ハーンが中性子を照射したウランからバリウムを発見したとの知らせを受けて,ただちにそれが核分裂であることをさとり,N.ボーアに報告するとともにこれに関する最初の論文(1939年)を発表。1949年スウェーデンに帰化。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マイトナー」の意味・わかりやすい解説

マイトナー
Meitner, Lise

[生]1878.11.7. ウィーン
[没]1968.10.27. ケンブリッジ
ユダヤ系のオーストリアの女流物理学者。 1906年ウィーン大学で学位取得後,ベルリンに行き (1907) ,ベルリン大学教授 (26) 。 38年ナチスの手からスウェーデンに逃れる。 60年引退してイギリスに渡る。ベルリン時代,O.ハーンとの 30年間にわたる共同研究で,プロトアクチニウムを発見し,核異性体,β崩壊に取組み,数々の業積を上げた。またウランの中性子照射による生成物の研究から,39年それがウランの核分裂によるものであることを明らかにした。 66年エンリコ・フェルミ賞を受賞した。

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世界大百科事典(旧版)内のマイトナーの言及

【核分裂】より


[発見と研究の歴史]
 1938年O.ハーンは,F.シュトラスマンとともに,天然に存在するもっとも重い元素であるウラン(原子番号92)に中性子を照射し,その結果生ずる微量な反応生成物を注意深く化学分析して,ウランのほぼ半分の質量をもつバリウム(原子番号56)の存在をつきとめた。かつてのハーンの共同研究者L.マイトナーは,この実験結果を伝え聞くや,O.R.フリッシュとともに,この現象を,原子番号92のウランが原子番号56のバリウムと原子番号36のクリプトンに割れる核分裂として説明した。一方,J.F.ジョリオ・キュリーは,ウランの核分裂によって非常に速いバリウムが直接飛び出してくることを巧妙な実験で示した。…

※「マイトナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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