目次 自然,住民 歴史 政治 経済,産業 社会 文化 文学 演劇 美術 音楽 基本情報 正式名称 =デンマーク王国Kongeriget Danmark 面積 =4万3094km2 (本土のみ) 人口 (2010)=555万人 首都 =コペンハーゲンCopenhagen(København)(日本との時差=-8時間) 主要言語 =デンマーク語 通貨 =デンマーク・クローネDanish Krone
ヨーロッパ北部,スカンジナビア3国の一つ。デンマーク語でダンマークDanmarkという。バルト海の入口を扼(やく)する483個の島とユトランド(ユラン)半島 からなり,ヨーロッパ大陸に対し北欧諸国中の最南の地を占めるというその位置が,歴史上大きな意味を有する。北欧最初のキリスト教化,封建制度の一部導入(スリースウィー公爵領),北欧最初の宗教改革,19世紀のドイツとの民族的抗争,ナチス・ドイツの占領,NATO加盟,北欧最初のEC加盟という諸事項に,デンマークの地理的位置が決定的ともいえる要因として働いてきた。このほか,自治領としてフェロー諸島 とグリーンランド を有する。
自然,住民 第4氷期の氷床はデンマークの地形に多大な影響を与え,首都コペンハーゲンのあるシェラン島 をはじめとする島嶼部とユトランド半島の東半分を覆い,その部分は氷堆石(モレーン )による丘陵性の大地が大きくうねっている。デンマークの最高地点は半島中央部の東寄りに位置し,173mのイディング・スコウホイYding Skovhøjである。他方,半島の西部は氷床の融水流が形成した平たんな地形を呈し,北海に至っても遠浅の海岸が続く。デンマーク語で湾のことをフョアfjord(フィヨルド)と呼ぶが,地理学の術語である氷食地形のフィヨルド を必ずしも意味しない。半島西岸のラグーン(潟湖)や東岸の氷床の底を流れた融水流によってできた谷による細長い湾もフョアと呼ばれる。バルト海上にあるデンマーク最東端のボーンホルム島 は花コウ岩,片麻岩からなる例外的な岩石島である。気候は西岸海洋性気候に属し,首都(1961-90)の平均年雨量は約525mm,最寒月は2月で月平均-0.1℃,最暖月は7月で月平均16.4℃,植生は基本的にはブナを中心とする広葉樹林帯で,ユトランド半島の平たんな砂泥地,低湿地,ヒース原野は,ほとんど土地改良がなされ,植林により針葉樹の森林が形成されている所がある。
デンマーク本国の住民は北ドイツやスカンジナビア諸国と同じく北ゲルマン系で,北ゲルマン語系のデンマーク語を話す。人口密度(1997)は122.4人/km2 で,出生率11.6‰(1996),平均寿命は男性72.6歳,女性77.9歳(1993-94)であり,人口は1980年代に停滞傾向を見せていたものの90年代に入って上昇をたどっており,1997年1月1日現在527万5121人。国内には1920年の北部スリースウィーの祖国復帰以来,ドイツ人と自認する人々が国境地帯に居住しているが,国内に少数民族問題は存在しない。また,22万2746人(1997)の外国出身者がデンマークに在住するが,国籍ではノルウェー,ドイツ,イギリスのほか,トルコと旧ユーゴスラビア,パキスタンが目だち,おもに労働者として居住している。イスラム教徒の外国人労働者の増大は,福音ルター教会(ルター派)を国教とするこの国では多少なりとも文化的摩擦を引き起こしている。
歴史 エルテベレ貝塚など中石器時代の遺跡も知られるが,800年ころに始まる〈バイキング 時代〉からデンマークの歴史時代が開始される。デンマーク最初の王たちは自地域の最南に土塁〈ダーネビルケ 〉を構築し,交易地ヘゼビュー (ハイタブ)の防衛と祖国防衛に力を注ぎ,この活動の延長上に,王の率いるバイキング活動が存在し,フランク王国とはアイダー川を国境として約定した(811)。やがてイェリングの地で興った王家は,970年ころハーラル青歯王Harald Blåtand(在位935ころ-985ころ)治下で王国をキリスト教化し,その子スベン1世 がイングランドを征服しその王を兼ね(1014),その次男クヌット2世 が1016年イングランド王位に就き,18年兄ハーラル2世の没後はデンマーク王を兼ね,さらに28年ノルウェー王にも推戴され,3王国の王となった(これは北海帝国と呼ばれる)。クヌットの姉エストリドの子スベン2世Svend Ⅱ(在位1047-74)は,その統治期間中に現代のデンマークにつながる内政的秩序を打ち立て,後の王はなんらかの形で彼に血統をさかのぼらせることになる。彼の孫の代で王位をめぐる内戦状態に入り,1157年バルデマー1世 が唯一の王となり,内戦を終結させた。バルデマー1世はランスティング(国民集会)の同意を条件に王位世襲の原則を確立した。77年大司教となった乳兄弟アブサロン が,コペンハーゲンの基礎となる港(ハウン)に要塞を築き,バルデマー1世の統治に貢献した。2代後のバルデマー2世Valdemar Ⅱ(在位1219-41)の治下,エストニアの攻略や経済上の繁栄により王権は強大化し,1241年にユトランド法を勅認した。王の没後,王権と貴族の対立は激化し,アーベル王(在位1250-52)のとき,弟に領土の一部移譲を認め,スリースウィー(シュレスウィヒ)が北欧唯一の世襲公領となった。王と貴族間の権力の分権化が後にさらに進み,82年には憲章により貴族を中心とする〈ダーネホフ〉という議会が開かれるようになった。やがて1332年から8年間の〈空位期〉を経て,バルデマー4世 (在位1340-75)が国内の混乱を平定し,ハンザ同盟 とも和解し,政情は安定する。バルデマー4世の娘マルグレーテ (のち1世)はノルウェー王ホーコン6世Håkon Ⅵ(在位1355-80)と結婚し,その間に生まれたオールフOlufはバルデマー4世没後デンマーク王位に就き(1375),80年父ホーコン王の没後,ノルウェー王を兼ねる。87年オールフが死にマルグレーテは両国の国務院から〈最高権威者〉(摂政)に推戴され,事実上の〈女王〉となり(1387-97),89年スウェーデン貴族の要請でスウェーデン王アルブレヒトを追放し,3王国を合一した。97年姉の孫,ポンメルンのエリクをカルマルに集まった3国の貴族らに共通王と承認させ,〈カルマル同盟 〉を成立させた。カルマル同盟はデンマークの優位を前提としており,以後スウェーデンは1448年から幾度かの分離を繰り返して最終的に1523年のグスタブ1世 の即位まで,ノルウェーは1814年まで,いずれもデンマークの支配下におかれることになる。
1448年,オルデンブルクのクリスティアン1世(在位1448-81)が国務院から王に推戴され,彼はオレンボー朝 の開祖となる。次王ハンス(在位1481-1513)は,79年にコペンハーゲン大学を設立した。フレゼリク1世Frederik Ⅰ(在位1523-33)は,ルターのもとに学んだデンマークの修道士タウセンHans Tausen(1494-1561)がもたらしたルター主義を保護し,これによってデンマークの〈宗教改革〉が始まった。没後その子クリスティアン3世(在位1534-59)の王位継承が混乱の中で貴族会により1年間拒絶されたが,ユトランドの貴族らは彼を支持した。これに対し首都やマルメーの市民らが貴族勢力に抗するため前王クリスティアン2世を擁立し,これをリューベック軍が支援する形で争った(伯爵戦争)。しかし1536年に首都が陥落してクリスティアン3世の勝利のもとに内乱は終結,貴族会ではルター教会が承認されることとなった(1537)。またクリスティアン2世を支援したリューベック軍はスウェーデン・デンマークの海軍に敗れ,以後バルト海におけるハンザ同盟の勢力は急速に衰えていった。
重商主義政策,ルネサンスと華やかな側面の目だつクリスティアン4世 (在位1588-1648)の治世は,反面カルマル戦争や三十年戦争参戦という国難の時代でもあった。続くフレゼリク3世(在位1648-70)の治下,〈ロスキレの和約 〉によりデンマークはスコーネを失ったが(1658),翌年のスウェーデン軍の首都攻撃を市民とともに王は防衛し,これを機に国務院を廃し王権の世襲制を確立,絶対王政が開始される(1661)。1665年〈王法〉が成立し,王位継承法等が規定された。18世紀には〈敬虔主義〉がデンマークを風靡し,〈堅信礼〉が導入された。また農村人口はペストの流行と穀物価格の下落等により減少し,農民を農地に緊縛する法律が施行された。18世紀後半は重商主義を基調に,イギリス,フランス両国間の抗争に中立政策で臨んで利益をあげた。政治的には自由主義的急進的政策をすすめたストルーエンセ が宰相となったが,短期間で失脚し,代わって宰相となったグルベア によって官僚機構の整備など絶対王制の強化が再び図られた。フレゼリク6世Frederik Ⅵ(在位1808-39)は,1784年から精神病に冒された父クリスティアン7世の摂政となり,農民解放,自作農化,農地改革を遂行した。ナポレオン戦争では,中立時に首都が英艦の砲撃を受け(1801,07)不本意ながらフランスの同盟国として敗戦を迎える。戦勝国との間に1814年〈キール条約 〉を結び,ノルウェーをスウェーデンに割譲し,ノルウェーとの同君連合に終止符を打った。34年,四つの地方議会が開設されるが,南からドイツ化が進行しつつあったスリースウィーでは議場を中心にデンマーク語,ドイツ語をめぐる闘争が展開され,民族抗争が激化した(スリースウィー問題 )。48年コペンハーゲンに無血革命が起き,絶対王政が崩壊すると,キールではドイツ志向の〈シュレスウィヒ・ホルシュタイン主義者〉が臨時政府樹立を宣言し,ドイツ連邦の援助を仰いだため,デンマークとプロイセンが出兵し戦争に突入した。デンマークの民族地域であるスリースウィー公爵領と王領との自由主義憲法下の合併がデンマーク政府の意図であり,2度の戦争を経てデンマークは敗北し(1864),スリースウィーを失い,その結果,史上最小の版図となった。
49年に自由憲法を制定したフレゼリク7世が63年に没し,オレンボー朝は断絶,クリスティアン9世(在位1863-1906)が即位して,グリュクスボー朝 が始まった。対独戦争後,経済的転換期を迎え,共同組合活動等を通じて農業の近代化に成功,さらに産業革命による首都の都市化が進み,近代産業国家への道をデンマークは歩み出す。都市化に伴い労働者階級が政治勢力となり,72年社会民主党が成立,左翼党が下院の過半数を占めていたことを背景に,議会主義の要求が80年代から存在し,1901年〈体制変化〉が生まれ,左翼党内閣が成立した。その間,社会立法による福祉国家への基礎が築かれ,〈防衛ニヒリズム〉といわれる平和主義が内政・外交を規定していくことになる。15年の憲法改正により,上・下院の差別撤廃,女性参政権,比例代表制が制定された。20年に北部スリースウィーが住民投票を経て祖国に復帰し,現在の版図が成立した。第2次世界大戦中,ドイツに占領されたが,国境線は維持された。
49年NATOに加盟し,53年の憲法改正により,上院を廃止し,フレゼリク9世後の女性王位継承権を認め,72年のマルグレーテ2世誕生の布石となった。
政治 1972年以来マルグレーテ女王を元首とする。女王は前王フレゼリク9世(在位1947-72)の3息女の長女で,〈1953年6月5日憲法〉が立憲君主国デンマークの王位の継承権をグリュクスボー家内に限定し,男子への優先権を認めながらも,長子(男女とも)による王位継承権を規定したために〈女王〉が出現した。この憲法は現王朝の存続と上院の廃止を目的として従来の憲法(古くは〈1849年6月5日憲法〉にさかのぼる)が修正されたもの。立法権は王と国会にあり,王はまた閣僚会議を主催し,行政権は王と内閣にあり,司法権は裁判所に属する。王は首相以下閣僚を任命し,法令は王と1人以上の閣僚の署名をもって発布される。法的には大きな王の権限も,1920年のクリスティアン10世 の内閣罷免(〈復活祭危機〉と呼ばれる)以降,事実上の実権行使はなされていない。
国会(フォルケティングFolketing)は一院制で,定員179議席は自治領のフェロー諸島とグリーンランドに各2議席をあて,残りは17選挙区から比例代表制で選出される。選挙権・被選挙権は18歳以上の男女に与えられ,議員の任期は4年で議院内閣制が憲法で規定されている。国民は〈国会オンブズマン〉に行政上の不服を申し立てることができる。1960年代までの得票率は,社会民主党40%,左翼党(自由党)20%,保守国民党20%,急進左翼党10%で,議席獲得には2%の制限条項が存在する。議院内閣を形成する二大勢力は,社会主義勢力と左翼党・保守国民党のブルジョア勢力であった。60年代半ばに社会人民党が頭角を現し,五大政党時代へ入り,経済にかげりがさしはじめた73年,社会人民党,急進左翼党が大幅に後退し,高税福祉制度を批判した進歩党が一挙に第2党へと進出,議席をもつ政党数が2桁へと移行する多党化時代にいたる。80年代以降は社会民主党を中心とする連立政権か,ブルジョア4党連立政権が行政を担い,双方,平和主義を基調にNATO残留,EC(現EU)加盟,北欧諸国間協力が外交上の基本政策である。現在の第2次ラスムセン政権(社民党他2党連立)は94年9月に成立した。このときの得票率は,社会民主党34.6%,左翼党23.3%,保守国民党15%,社会人民党7.3%,急進左翼党4.6%,進歩党6.4%で,女性議員数は59名だった。第2次大戦後,スウェーデン,ノルウェーと北欧防衛同盟に向け折衝した時期があったが,49年交渉は決裂し,同年デンマークはNATOに加盟した。73年以来,兵役義務年限は勤務の種類によって4~12ヵ月であり,3軍合計で兵力は3万5100名,予備役6万9000名(1995)である。国連の原加盟国として世界平和維持機関としての国連活動に協力し,平和維持軍をコンゴ(1960),キプロス(1964)へ派兵している。また発展途上国に対する政府開発援助(ODA)にも積極的で,国連が定めた目標値であるGNPの0.7%は78年に達成した。援助先は国連開発計画(UNDP),タンザニア,ウガンダ,インド,バングラデシュが中心となっている。1952年北欧各国国会議員からなる〈北欧議会〉が成立し,その決議は北欧各国政府に対し勧告として発せられ,その他,軍事・経済を除く実質的協力・共同機関はみごとに機能している。1972年国会はEC(欧州共同体)への加盟を141議員の署名による決議書をもって承認,国民投票において56.7%の賛成票を得て承認され,73年1月,EC(現EU)へ加盟した。なお,92年国民投票によってヨーロッパ連合条約の批准を否決してEU加盟国間にデンマークの存在を再認識させた。
デンマークの地方自治体は,首都のほかに14県,54政治区に分割され,首都コペンハーゲンは1政治区でもある。
経済,産業 スリースウィー戦争の敗北(1864)後,これによって失った領土がハンブルク市場圏にあったため,主たる貿易相手国はドイツからイギリスへと移った。ソーネHans Christian Sonneの主唱した共同組合運動(1866)や共同酪農協会(1882)の設立等で農業の革新が準備され,19世紀末の新大陸等からの安価で大量の穀物が西欧へ流入した〈農業恐慌〉をデンマークは回避し,酪農業へと転じていた。1870年代にデンマークは産業革命の時代に突入,農産物加工を主体とする工業は全国的工業化の基礎ともなった。こうした状況を象徴するのが,北海岸のエスビアウ港の築港であり,酪製品等の輸出港として19世紀末から急成長を遂げた。鉱産資源は石灰岩と陶土のみで,農産物が最大の産業資源であり,1940年代に至るまでデンマークの産業は農業に依存し,70年代に入って工業がそれに並ぶようになった。現在,工業生産額は国民生産のうちでは農業の2倍を超え,工業製品の輸出額に占める割合は約3分の2にあたる。
人口による産業構造は,第1次産業4.9%,第2次産業24.9%,第3次産業69.7%であり,福祉国家を反映して公務員数は全産業人口の34.7%にも達する(1995)。国土の63%が農地であり(1996),その56.9%が穀物生産に利用され,さらにその61.2%は飼料作物の大麦の生産にあてられている。1980年代以降,農業者の高齢化が顕著になり(平均年齢51~52歳),50ha未満の耕地所有者が全体の72.6%を占める。食肉・酪農製品等の輸出が盛んで輸出総額の約16%を占める。19世紀にわずか国土の4%であった森林は,植林により10.3%となり,木材の国内需要の半分を補っている(統計は1990)。漁業(就業人口約7200人,1995)は,漁獲量約111万5000t,漁獲高81.2億クローネで,主要魚種はタラ,サケ,ニシン等である。デンマークの工業は,比較的小規模な会社・工場によって支えられ,国際的大製造業は無に等しいが,手工業的な陶磁器,銀器等の生産の国際的評価は高い。なお,失業率は男性7.8%,女性10.1%(1996)。
デンマークは輸入エネルギー源に大きく依存しているが,北海油田の開発にともなって1990年代には原油と天然ガスの輸出も可能となった。他方,生物ガス,風力の活用と廃物のエネルギー転化も実用の段階に達している。なお,1971年に環境省を設置したデンマークは,もっとも進んだ環境保護政策を実行し,成果をあげている。デンマークの貿易は,輸出総額2934億クローネ,輸入総額2629億クローネである(1996)。総貿易額のうち,第1,2,3位の貿易相手国であるドイツ,スウェーデンとイギリスを含むEUに対するものが,輸出65.5%,輸入71.6%と圧倒的である(1996)。その他の主要な相手国はノルウェー,アメリカ,日本(輸出3.4%,輸入2.2%)。主要貿易品は輸出では酪農製品・食肉等の農産品(16%)よりも,化学・工業製品,機械類が圧倒的に多く,輸入では鉱物燃料(5%)建築資材類(7.4%)や機械類(20%)が多い。日本は貿易相手国としては輸出では9位,輸入では11位で,貿易収支は黒字である(1996)。1990年代前半の経済成長率は年平均約4%,インフレ率は2%となっている。
デンマークの交通機関は国土が狭いため,道路・鉄道網ともよく発達し,鉄道敷設は1930年以来,原則的に首都圏の電車区を除いては停止され,経済効率のよくない路線は,バスの運行に置き換えられ,1995年末現在の総延長は国鉄2346km,私鉄494kmとなっている。また,デンマーク国内最大の航空運輸会社(DDL)は,スウェーデンのABA,ノルウェーのDNL両社と共同で,スカンジナビア航空(SAS)を運営している。
社会 1864年のドイツに対する敗北によって実力による北部スリースウィー奪還の可能性が完全に消滅し,70年代以降,デンマークでは小国としての認識が芽生え,平和主義的傾向が生ずる。この土壌の中で現在,力としての国家権力,男性優越権,権威としての親権等が疑問視され,新しい社会観・家族観が育っており,言論・表現の自由,男女平等,観念的性道徳の否定といったものが,世界中で最も徹底した形で実現されている。1960年代から顕著に現れた家族関係の変化は,18歳ころからの経済的な面をも含めた子どもの親からの完全独立,結婚数の減少(1980年代後半から年間3万1000~3万5000組),離婚数の増加(同じく1万2000~1万4000組),いわゆる〈書類なし結婚〉の増加等といった現象に表れている。ただし以上の状況と相まって,各種の学校の新卒者の失業,最貧層としての〈学生〉の存在,住宅問題等の社会問題が国民の若年層にしわ寄せされている。これを具体的に示すものは,20代前半の若者の失業率が他の年齢層に比して著しく高いことである(1993年平均10.7%に対して20~24歳人口は18.1%,1994年平均8%に対して11.8%)。
1849年の憲法にうたわれた公による貧窮者扶助の条項は,首都圏の防衛強化法案との妥協の産物として90年以降に実施に移され,1933年の社会改革によって,国民保険,廃疾・生活保護にかかわる3法が成立し,高福祉国家への路線が準備された。70-76年にはさらに社会立法が整理され,73年には疾病金庫が健康保険に改められ,原則として医療費の無料化(ただし医薬,歯科治療へは補助金の交付),67歳からの老齢年金,廃疾年金,寡婦年金,労災保険等が公機関によって整備され,最終的には全国民を対象とする76年の〈社会支援法〉で完成した。しかし,社会福祉関連支出は公的支出の約46%,GNPの約30%になっている(1994)。
デンマークは労働者の組織化がきわめて進んでおり,約152万(1995)の私企業の労働者,約111万の公務員は,産業別労働組合に所属し,その大半は〈全国労働者同盟〉(LO,1898結成。1997年1月組合員総数149万6000人)に加盟している。これに対し,企業者側は〈デンマーク企業家協会〉(DA。約2万8000社)を組織して対応し,労働問題は両者間の協議によって解決が求められてきた。
1814年に7年制の学校教育制度(小学校)が導入され,49年の憲法では全児童の義務教育制が制定され,さらに99年には教科別単位時間が決定され,教員養成制度も確立された。中学校が1903年の公立学校法によって設立され,それは37年の国民学校法によって試験入学制,無試験入学制の2種類の中学校に改組されたが,58年の学校法により中学校は廃止され,根本的に学校制度が全国的に統一された。現行のものである75年の国民学校法は76年8月から施行され,義務教育の9年連続の小・中学校制(10年生クラスも備えられている)が導入された。9年生終了後,生徒たちは少数の社会人となる者を除き,大学等の高等教育を目ざすギュムナシウム(高校),各種の職業学校(EFG),あるいは10年生を経て2年間の高等教育準備コース(HF)へそれぞれ進学する。大学へ進学する者は卒業時の大学入学資格者試験やHF試験にパスする必要があり,大学生数は総合大学3校,学際的研究を試みる大学センター3校,単科大学等を合わせて16万0352人(1993)である。教育制度の枠外ではあるが,19世紀のロマン主義思想から生まれた全寮制教育機関は,〈国民高等学校(または国民大学)〉として世界的に有名であり,それは私立学校機関であるが,教職員の給与には国庫補助が出ている。ガーナ,タンザニア,インドといった発展途上国にもこれをモデルとしたものができている。
文化 文学 現存最古の作品は,キリスト教聖職者による教化作品を別にすれば,サクソ・グラマティクス の《デーン人(デンマーク人)の事績》である。これは伝説時代から1185年までのデンマーク王朝史で,ラテン語による男性的な民族文学と特徴づけられるが,その中には古代デンマークの英雄詩作(〈ビャルケのうた〉等)がかなりラテン語で再現されている。発生上中世に属する文学ジャンルに,上層階級に始まって民衆間に普及したバラードがあり,その作品数は500以上とヨーロッパ随一を誇り,中世デンマーク人の諸相を伝えて貴重である。サクソ・グラマティクスの著作とバラードは,とくに19世紀の文学や美術に無数の題材を提供している。中世後期(1350-1500)には国語による聖俗両種の文学が興隆し,なかでも独特な作品として,デンマーク最古の印刷物(1495)ともなった《韻文年代記》がある。
16世紀は宗教改革と人文主義の時代で,国語文学で最大の記念碑は,《クリスティアン3世欽定訳聖書》(1550)で,その翻訳の中心は,人文主義者ペーゼルセンChristiern Pedersen(1475ころ-1554)とシェラン管区監督パラディウスPeder Palladius(1503-60)である。17世紀になると,古典古代の詩芸に拠って芸術詩と呼びうる作品が初めて現れ,〈デンマーク詩芸の父〉アレボーAnders Arrebo(1587-1637)牧師がフランスのデュ・バルタス作《聖週間》にならって天地創造の《六日物語》をまとめた(1630-37)。デンマーク・バロックは抒情的宗教詩人キンゴThomas Kingo(1634-1703)でその頂点に達する(《霊的歌集》2巻。1674-81)。この世紀には回想録にすぐれたものが認められ,なかでも王女クリスティーナLeonora Christina Ulfeldt(1621-98)の《苦難の思い出》(1673-74)は人間性を描いてみごとである。
18世紀はルイ14世のフランス文化が全ヨーロッパで国際的威信を享受し,デンマークもその啓蒙主義と古典主義から強く影響される。この時代の申し子,〈デンマーク文学の父〉と呼ばれるノルウェー人ホルベア は広く文学,歴史,哲学の分野で超人的な著作活動を行い,モリエールとユウェナリスに多くを負う人間・社会風刺の喜劇多数と,哲学的な書簡体エッセーをまとめた。18世紀中期までのデンマーク文学は概してフランス的,次いでイギリス的色彩を帯びていったと言えよう。これに対して,ドイツ敬虔主義詩人クロプシュトック が国王に招かれて約20年間(1751-70)コペンハーゲンに滞在したことは,その後のデンマーク文学をドイツの模倣へと向かわせた。この変換の過渡期となる18世紀後半を代表する文人にエーバルJohannes Ewald(1743-81)がおり,彼はフランス古典主義の作法に従いながらも,クロプシュトックからの示唆を受けて,古代北欧悲劇を書いた(1773年作《バルドルの死》はデンマーク文学初の本格的歌劇)。この後感傷主義(たとえばバッゲセンの旅行記《ラビリント》1792-93)を経て,デンマーク文学の黄金時代とされるロマン主義の時期が到来する。
1802年12月青年詩人エーレンスレーヤー は,イェーナのロマン主義をコペンハーゲンにもたらしたステフェンスHenrik Steffens(1773-1845)から刺激を得て,北欧ロマン主義の開始を告げる小詩《黄金の角杯》を含む《詩集1803年》を発表した。彼に続くロマン主義者には,たとえばドイツ系のシャック・フォン・スタフェルト,グルントビ ,インゲマン,ハウクがいる。19世紀半ばは後にデンマーク内外で古典となる文人が多数輩出するが,物語の名手で方言文学の先駆者ブリッカー ,文芸評論家ハイベア ,童話文学の確立者として不朽のアンデルセン ,思弁的風刺家パルダン・メルラーFrederik Paludan-Müller(1809-76),文人思想家のキルケゴール,ユダヤ要素でデンマーク文学を豊かにしたゴルスメトMeïr Aron Goldschmidt(1819-87)らはその一部である。70年代にフランス・イギリス型の自然主義が文芸批評家ブランデス によって導入され,彼は心理描写にすぐれた無神論者ヤコブセン ,シャーンドーフSophus Schandorph(1836-1901),一時期のドラクマン やギェレループ らの〈現代転換派〉を世に出した。ギェレループとともに1917年ノーベル文学賞を受けたポントピダン は独自に個性の解放を目ざした。ブランデスの陣営外にあった文人としては,さらにリアリズム作家バング らがいる。1890年代はフランス象徴主義の影響と抒情詩の時期で,いわゆる〈90年代派〉としてヨーアンセンJohannes Jørgensen(1866-1956),ストゥッケンベア,クラウセン,ローゼ,ホルスタインが出た。リーダーのヨーアンセンはまもなくカトリックに改宗して以後は聖人伝作家として著名になる。2人の女流作家ヘニングセンAgnes Henningsen(1868-1962)とレムケGyrithe Lemche(1866-1945)が世紀の変り目に登場して,女性の解放を小説の主題にした。
20世紀文学はまず庶民出身の人々が自己の故郷や階層を新たに文学の中に取り入れ,郷土文学,農民文学,プロレタリア文学を興した。その旗手は,小作人を主人公とする小説家スキョルボーJohan Skjoldborg(1861-1936),抒情詩人オーケアJeppe Aakjær(1866-1930),女流作家ブレーエンダルMarie Bregendal(1867-1940),1944年のノーベル文学賞の進化論者イェンセン ,プロレタリア作家アナセン・ネクセー らであった。第1次大戦以降は国際的な諸思潮の影響を受けた文学者が多数現れる。たとえば抒情詩人のクリステンセン,ラ・クールPaul la Cour(1902-56),小説家のパルダン,ベカー,キアク,ブラナーHans Christian Branner(1903-66),ドンス,ハンセンMartin Alfred Hansen(1909-55),セナービュー,劇作家のムンク ,アベル,ソーヤが有名である。独自の文学的立場を有するのは,抒情詩人ペーダーセンと女流物語作家ブリクセン である。ドイツ軍占領下(1940-45)に,文学はムンクらを例外として,地下活動を余儀なくされた。
第2次大戦後10年間のデンマーク文学は引き続きブラナー,ハンセン,ラ・クールらによって代表されたが,新世代として抒情詩や文芸批評のクヌッセン,アビルゴー,ビョーンビ,イェーア,サービ,ウィーベル,短詩型のハイン,詩人で小説家のベズカーが出た。1960年代にはモダニズムが本格的になり,アナセン,マリノウスキー,ハーダー,リーフビャウ,ブラントらが台頭する。さらに70年代にはフェミニズム文学が興り,現在にいたるまで女性の台頭は著しい。その代表としては小説家ドリト・ウィルムセンDorrit Willumsen(1940- ),キアステン・トーロプKirsten Thorup(1942- ),詩人インガ・クリステンセンInger Christensen(1935- )が挙げられる。近年国際的評価が高まっている小説家にピーター・ヘーウPeter Høeg(1957- )がいる。
演劇 中世のカトリック教会劇,宗教改革時代の学校劇の後,フランス人ド・モンテギューRené Magnon de Montaigu(1650ころ-1737)創設(1722)の〈デンマーク演劇場〉と喜劇作家ホルベアの出現によって近代演劇が始まった。デンマーク演劇場は経営上の困難と禁欲主義的な信仰を擁護した王室によって1727年にいったん閉鎖されるが,47年に再開され,翌年に現在の王立劇場の地に移転した。〈王立劇場〉の名称は72年以後のもので,また現劇場は1872-74年に建てられた。1770年代には音楽学校,歌劇団,バレー団が併設された。
ホルベアの後デンマーク演劇は,エーワルJohannes Ewald(1743-81)の成功作《漁師たち》(1780初演)やウェッセルJohann Hermann Wessel(1742-85)の悲劇パロディ《靴下が不足した愛情》(1773初演)等の例外はあるものの,全般に振るわなかったが,19世紀初頭に悲劇作家エーレンスレーヤーが出現するに及んで大転換を迎え,活動的になった。この後にハイベアのボードビル,オウアスコウThomas Overskou(1798-1873)らの市民ロマンス劇が続く。ホルベア喜劇の復興をみた1850年前後の数十年間は王立劇場の黄金時代であった。第2の黄金時代はイプセンとビョルンソンのノルウェー人作家やドラクマンの作品がレパートリーの中心だった76-94年である。1848年に初の民間劇場〈カシーノ〉(1848-1937)が出現した。さらにはダウマー劇場(1883-1937),〈新劇〉(1908-)等が高い水準を保った。コペンハーゲン以外でも,オーゼンセ,オーフス,オールボーの諸市にも劇場があって,地方の文化生活に重要な位置を占めている。今日国際的に知られる王立バレエ団は,指導と振付に才能を発揮したブルノンビル(1805~79)が育成した。
美術 デンマークの美術は先史時代,とりわけ青銅器時代に,形式の点で他の北欧諸国よりも豊かであった。また10世紀ころには,イェリング・ルーン石碑第2号に彫られた十字架上のキリスト像が示すように,西ヨーロッパの様式と強く関連していた。キリスト教教会建築は当初木造であったと考えられるが,現存最古のものは石造教会のみである(12世紀のフィエネスレウ教会等)。最古の石造教会に認められるおもな特徴は,フランドルやロンバルディアのロマネスク様式,あるいはラインラント様式の影響を示している。1200年ころからは,北ドイツやフランスに結びつくゴシック様式の煉瓦教会が残っている。15世紀までの教会・城砦の建築,絵画,彫刻等は西ヨーロッパ各地,とりわけ後期の彫刻にみるように北ドイツと関係しながら発展した。
近世初期に認められる大きな特徴は,16世紀後期に建築で進展したオランダの煉瓦様式で,ヘルシンゲアのクロンボー城Kronborg slot,コペンハーゲンのホルメンス教会,ローセンボー城,株式取引所に見られる。フレゼリクスボー 城やローセンボー城は〈クリスティアン4世様式〉の典型である。17世紀後半からはフランス・バロック古典主義の影響が著しくなる。城砦以外の例としては,ファン・ハーベンによるコペンハーゲンの救世主教会(1682)がある。17世紀は外国人,とくにオランダ人が活躍し,なかでも彫刻で目だった。18世紀建築の様式とデザインの確立には,フレゼンスボー 城の建築で有名なアイトベズNicolai Eigtved(1701-54)が寄与した。
デンマークの美術学校は,フランスの彫刻家サリーを校長に迎えて1754年に開校し,デンマーク美術のその後の発達の担い手になった。国際的な名声を得た最初のデンマーク人美術家は彫刻のトルバルセン で,彼は長期間ローマで制作し,新古典主義の作品を多数残した。同時代の絵画では肖像画のユールJens Juel(1745-1802),静物画のアビルゴール が重要である。ロマン主義はトルバルセンの弟子たちのフロイント,大ビッセン,イェリコウらが代表する。一方,海洋画家として名高い美術学校教授エッカースベアChristoffer Eckersberg(1783-1853)の影響下に黄金時代の古典主義画家たち,ケブケ,C.ハンセン,マーストランらが出た。19世紀末にはとりわけ民衆生活が作画の対象とされ,とくにデュッセルドルフ派のソンネ,スメット,リング,スカーエン派のクロイア,アンカー夫妻およびヨハンセンが活躍した。印象主義的な動物・風景画家フィリプセン,ロマンティシズムの歴史画家サートマン,象徴主義に影響されたE.ニールセンやスコウゴーらも同じ頃に現れている。ゴーギャンらフランスのポンタベン派と直接結びついた画家にフィン,バリン,ウィルムセンJens Ferdinand Willumsen(1863-1958)たちがおり,ウィルムセンは独特の象徴主義的表現でこのグループを代表する。いっそう象徴主義的傾向の強いのはフューン派の風景画家たち,シューベア,P.M.ハンセン,ラーセンである。どの流派にも属さない教会記念画家ステウンスは厳格な写実主義を最大の特徴とする。
建築では歴史的要素が著しく,たとえば,ニューロブMartin Nyrop(1849-1921)が設計したコペンハーゲンの市庁舎屋(1892-1905),カンプマンHack Kampmann設計のニュー・カールスベア・グリュプトテーク美術館(1901-05),クリント設計のグルントビ記念教会(1921-40)がその好例とされる。カンプマン設計のコペンハーゲン警視庁舎屋(1918-24)は機能主義の古典主義的な準備段階を示し,機能主義の完成された作品としては,フィスカー設計オーフス大学校舎とラウリツェン設計デンマーク国営放送局舎屋がある。
現代絵画はマティス派のゲアシングやスバーネから始まった。この絵画と密接に関連した感覚的な写実主義がヘニングとニールセンKai Nielsen(1882-1924)の彫刻に認められる。ドイツ表現主義はとりわけボーンホルム派のヘスト,バイエ,ルーゼ,女流のノアックによって代表される。キュビスムに影響された画家としてロンストレムがいる。非具象主義は画家モーテンセンと彫刻家R.ヤコブセンの国際的な美術家を生んだ。さらに国際的な画家としては,国際集団〈コブラ〉のメンバーであるヨーン,E.ヤコブセン,ペーザーセンもおり,彼らはシュルレアリスムからスタートして力強いプリミティブな絵画にいたった。 執筆者:菅原 邦城
音楽 中世の古い民俗歌謡バラードは,神話や伝説から取材した物語詩を独唱者と合唱者が交互に歌い継いでゆくもので,宮廷音楽として発生したが,まもなく農民階層にも広く浸透し,歌いかつ踊られた。史料としてはベルグレーンAndreas Peter Berggreen(1801-80)編《本国と外国の民俗歌詩と曲》11巻(1842-55)が重要である。民俗楽器は青銅器時代の管楽器ルールが知られているが,中世以後好んで使用されたのはハープ,リラ,ランゲレイク(長胴のチター),ハーディ・ガーディとこれに似たノイレファイレ,柳の樹皮で作った横笛等である。
一方,教会では早くからグレゴリオ聖歌が歌われ,12世紀の古い手写本が現存する。16世紀初め宗教改革に際してデンマーク語の賛美歌集が編纂されたが,その旋律はドイツのルター派の曲からの借用が多い。クリスティアン4世(在位1588-1648)の治世に宮廷音楽が頂点に達する。ダウランド ,シュッツ ら外国人の巨匠たちの指導のもとにM.ペーゼアセン,H.ニールッセン,J.エールンら自国の音楽家が育つ。ブクステフーデ はリューベックで活躍した。また同じ頃王室管弦楽団が整備され,王立劇場と協力してオペラの発展に寄与する。初期のオペラは外国人の手になるものだったが,19世紀に入る頃から自国の詩人と作曲家による庶民的な素朴な様式の作品が生まれる。舞踊界では,ブルノンビル (1805-79)が50年間にわたって王立バレエの監督として活躍した。
ガーゼ を経てC.ニールセン 以後デンマーク音楽は国際的水準に達する。ニールセンの作品は交響曲から歌曲まで幅広く,強烈な個性の刻印が押されている。彼に次いで音楽理論家としても活躍したイェッペセンKnud Jeppesen(1892-1974),その弟子にF.ヘッフディングがいる。20世紀のデンマーク音楽は,H.D.コッペル,S.S.シュルツ,N.V.ベントソン,V.ホルンボーらの活動を経てしだいにヨーロッパの新しい音楽思潮に同化してゆく。 執筆者:後藤 暢子