翻訳|Moro
フィリピンのイスラム教徒を総称する名称。16世紀後半にフィリピンを占領したスペイン人植民者によって命名された。スペイン人は8世紀にアフリカ北西部(ローマ時代のマウレタニア,現在のモロッコ,モーリタニア地方)からイベリア半島へ進出してきたアラブやベルベル人をモロ(ムーア人)と呼んだ。マウレタニアの住民を指すラテン語マウルスmaurusがその語源である。スペインではやがて〈モロ〉は〈イスラム教徒〉の同意語となった。そこでスペイン人は,フィリピンのイスラム教徒に対してもモロの名称を用いたのである。
スペインの進出当時は,フィリピン中北部のミンドロ島やルソン島マニラ湾一帯にもモロ族が存在したが,スペインの征服活動の結果,モロ族の居住地域は,南部のスールー諸島とミンダナオ島およびパラワン島の一部に限られるようになった。スペインはこの南部モロ族社会を征服するために,3世紀にわたってモロ戦争と呼ばれる侵略戦争を継続したが,ついに成功しなかった。一方,モロ族はこれに対する報復として,スペイン支配下の中北部フィリピンの海岸地帯に果敢な海賊行為を繰り返したので,モロ族社会とキリスト教徒社会の間には,憎悪と対立の関係が形成された。アメリカ占領期に入って,モロ族はキリスト教徒と同一の政治体制の中に組み込まれた。しかし,両者の対立関係は解消されなかった。1946年に樹立されたフィリピン共和国においても,モロ族社会は文化的独自性を無視されたばかりでなく,少数民族としてさまざまな差別を被ってきた。このため,モロ族の間にはアメリカの占領体制期からすでに,キリスト教徒とは別個の独立国家樹立の要求がくすぶっていたが,この不満は70年代初頭に,モロ民族解放戦線(MNLF)を中心とする激しい武力闘争となって爆発した。中東イスラム諸国家の支援を受けたこの運動は,今もって解決をみていない。
執筆者:池端 雪浦 モロ族は,フィリピンでは公式には〈ムスリム・グループ〉と呼ばれる。フィリピン国立博物館が発行している《主要な少数部族の分布図》によれば,ムスリム・グループとしてミンダナオ島のラナオ地区にマラナオ族,コタバト地区にマギンダナオ族,南ダバオ州南部にサンギル族,サンボアンガ沖のバシラン島にヤカン族,スールー諸島のホロ島にタウスグ族,タウィタウィ島にサマール族,そしてスールー諸島全域にかけてバジャオ族,パラワン島南方のモルボッグ島にモルボッグ族の8部族が記されているが,モロ族はかつて海賊として恐れられたように海洋民族であるので,実際の行動範囲はこの分布図の地域にとどまらない。サンボアンガの壮麗なモスクは有名であり,村長や有力者には〈ハジ〉の称号をもつ者(メッカ巡礼を果たした者)が多い。男は白い帽子と幅広のラッパ・ズボン,女は色彩鮮やかな広幅の腰布が特徴的である。戒律は必ずしも厳しいとはいえず,毎日定刻のコーラン読誦やメッカ礼拝は厳守されてはいないが,金曜日は聖日として休む。なおモロ族というのは蔑称であるとされるが,彼ら自身はモロ族という語に誇りをもち,モロ民族解放戦線の名が示すように,連帯感をもつ〈モロ社会〉〈モロ文化〉を意識している。
執筆者:大島 襄二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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【住民】
フィリピンの住民構成はきわめて複雑にみえるが,人種的には南方モンゴロイドといわれる新マレー系人種を中心に,少数民族としてコーカソイドとモンゴロイド両方の形質をもつ旧マレー系人種,ネグリト,それに中国人,ヨーロッパ人が混じっているにすぎない。分離独立を叫んで今日激しく中央政府と対立しているフィリピン人イスラム教徒のモロ族にしても,人種的にはタガログ,セブアーノと同じ新マレー系である。民族構成を複雑にしているのは,人種ではなく宗教であり言語である。…
※「モロ族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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