日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユダヤ演劇」の意味・わかりやすい解説
ユダヤ演劇
ゆだやえんげき
Jewish drama
ユダヤ人によってイディッシュ語Yiddishまたはヘブライ語Hebrewで行われる演劇。19世紀なかば、東欧を中心とするイディッシュ語文学の開花とともに生まれたイディッシュ演劇がまず主流を占め、20世紀に入ってから現代ヘブライ語を用いるハビマhabima劇団が登場し、イスラエル建国(1948)後はヘブライ語が公用語と定められたので、現在ではイディッシュ演劇はほとんど退潮している。
イディッシュ語は10世紀から11世紀にかけて、中高ドイツ語をベースに発達し、それにスラブ圏言語やその他の影響も受けて独自の発達を遂げ、儀式典礼語として残ったヘブライ語とは違う「俗なる言語」だが、東欧系ユダヤ人の間に広まり、第二次世界大戦前には1200万人のユダヤ人によって使われていたという。19世紀中葉になると、それまでミサ典書や民話、民謡などの形でしか現れなかったイディッシュ語を定式化し、文学作品が発表されるようになった。このイディッシュ語の演劇でもっとも古い記録は、1708年フランクフルトでドイツ系イディッシュ語で上演された『アハスベルス(流浪の民)の劇』(作者不詳)である。文学上の先覚者はメンデレ・モヘル・スフォリムMendele Mocher Sforim(1836―1917)であり、イサク・レイブ・ペレツIsaac Leib Peretz(1852―1915)、シャローム・アレイヘムらは、散文作品のみならず多くの戯曲も書いている。
1876年にイディッシュ演劇の父とよばれるアブラハム・ゴールドファーデンAbraham Goldfaden(1840―1908)がルーマニアのヤーシに最初のイディッシュ劇場を開設した。彼は俳優・演出家であったが、『魔女』や『スラミート』のような劇も書き、とくにミュージカル風な上演様式を確立した。第二のイディッシュ劇場は、現在のリトアニア共和国のビリニュスに、ゴールドファーデン一座の俳優だったイスラエル・グラードナーが作家ヨセフ・ラタイナーJoseph Lateiner(1853―1935)の協力を得てほぼ同時代に設立したものである。
しかしアレクサンドル2世暗殺後1883年にロシアではイディッシュ演劇が禁止されたので、ゴールドファーデンはじめ多くの人々がアメリカに亡命し、東欧ユダヤ人の運命を扱う作品を上演した。これらのなかでもっとも普遍的なテーマに高めた作品を書いたのが、『ユダヤのリア王』や『神、人間、悪魔』のヤコブ・ゴルディンJacob Gordin(1853―1909)、『砕かれた心』のソロモン・リビン(1872―?)などである。1918年にはモーリス・シュワルツMaurice Schwartz(1890―1960)がニューヨークにイディッシュ芸術劇場を開場した。ロシア帝国末期には、スタニスラフスキーの影響を受けたペレツ・ヒルシュベインPeretz Hirshbein(1880―1948)が、ウクライナのオデッサ(現、オデーサ)でイディッシュ芸術座を開場して1908年から2年ほど活動した。1916年以降ビリニュスで活動したグループもその流れをくんでいるが、こうした人々もアメリカに渡ってシュワルツと合流した。映画化されて有名になったハルパー・レイビック(1888―1962)作の『ゴーレム』もニューヨークで上演された作品である。
革命(1917)後のソ連では、「十月の演劇」に多くのユダヤ人芸術家がかかわったが、イディッシュ劇場は1927年にモスクワにグラノウスキーを指導者とする国立イディッシュ劇場が開場、アレイヘムの作品などを上演した。この劇場は1948年に閉鎖され、その後ペレツ・マールキシPeletz Markish(1895―1955)などはイディッシュ語作家として粛清され、処刑されている。
ポーランドでは、1921年、母とともにワルシャワにイディッシュ劇場を開いたイダ・カミンスカIda Kaminska(1899―1980)が、戦後ウージやブロツワフで活動したのち、1955年からワルシャワで劇場を再開したが、この劇場も1968年に閉鎖された。
ハビマ劇団はユダヤ人本来の言語であるヘブライ語を用いる演劇で、ハビマとはヘブライ語の舞台(シーン)という意味である。現代ヘブライ語によるハビマ劇団の活動は、イディッシュ演劇よりずっと遅れて1917年に、アマチュアのグループでショーレム・アッシュ(1880―1957)やペレツの作品をモスクワで上演したのが最初である。やがてモスクワ芸術座のスタジオ活動の一環に加えられ、1922年にワフタンゴフが演出したソロモン・アンスキ(1863―1920)作の『デュブーク』などで注目され、欧米にも客演した。1927年にアメリカ客演のとき一座が分裂し、一部はアメリカに残って英語で活動を始めたが、シオニズムの影響を受けたグループはパレスチナに移り、イスラエル建国以前の1928年から一種の国立劇場のような活動を始めた。初めワフタンゴフの様式的影響が強かったが、1942年には室内劇場が併設され、リアルな上演法も確立した。1948年の建国後このテル・アビブの劇場は国立劇場となり、一時は作家マックス・ブロート(1884―1968)も支配人となった。演目にはユダヤ作家のものも多いが、レパートリーは国際的になり、欧米の演出家もしばしば招かれるようになった。現在では付属の演劇学校ももっている。イディッシュ演劇の劇場も、保存の目的で1988年に再開されることが決まった。
イディッシュ演劇は東欧ユダヤ人を基盤にしていたために、ロシアにおけるポグロムやナチスのユダヤ人殲滅(せんめつ)政策によって人口が激減したので、演劇人も演劇を見る観客層も大量に喪失した痛手から回復するのが遅れている。イスラエルのイディッシュ劇場の再現も、ユダヤ文化の特定地域を基盤にして花開いた特殊な文化を保持するという面が強く、イスラエル建国の父といわれるヘルツルもかかわりをもっていたが、現在のイスラエルの国民的演劇ということはできない。移住定着した国においてその国の代表的な演劇人として成功した人材はラインハルト以来枚挙にいとまもないほどの数に達するが、イディッシュ演劇とのかかわりあいはそれほど深くない。東欧系でアメリカで活動を始め、ドイツ語圏に戻ったジョージ・タボリGeorge Tabori(1914―2007)のような作家兼演出家の場合、聖書やユダヤの伝説、ユダヤ人迫害をテーマにするものを扱うときに、イディッシュ演劇との間接的なかかわりが認められる。
[岩淵達治]