ロシアの代表的な劇団および劇場。正式名は「モスクワ芸術アカデミー劇場」といい、「ムハト」MXATと略称する。モスクワのトベリ(旧ゴーリキー)通りのカメルゲル(旧芸術座)横町にある。1898年、スタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコが官僚や興行主の支配する演劇界の旧弊、スター主義、芝居がかりの演技を排したリアリズム演劇を目ざして創立、「芸術公衆劇場」という名称で(1907年まで)、カレートヌイ通りの「エルミタージュ」を本拠地にして公演活動を始める。10月にA・K・トルストイの『皇帝フョードル・イワノビチ』で旗揚げした。12月にはアレクサンドリンスキー劇場の初演(1896)で失敗したチェーホフの『かもめ』を上演して絶賛を博し、カモメがモスクワ芸術座の標章となった。1902年に現在地に劇場を新築。作家チェーホフ、ゴーリキーとの出会いによって進歩的知識人たちの魂のよりどころとなり、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』(1899)、『三人姉妹』(1901)、『桜の園』(1904)、ゴーリキーの『小市民』『どん底』(ともに1902)で沈滞した劇界に新風を送り、またイプセンやハウプトマンら西欧近代劇を紹介した。1906年の最初の国外巡演で世界的な名声を得、カチャーロフ、モスクビン、クニッペル・チェーホワら多数の名優を輩出した。
第一次革命(1905)後の反動期にはメーテルリンク、アンドレーエフ、メレジコフスキーらの作品の上演で神秘主義・象徴主義的傾向を強めたり、十月革命(1917)後メイエルホリドから保守性を批判されたりしながら、ソビエト時代にふさわしい演劇を模索し、革命と現代を扱うブルガーコフの『トゥルビン家の日々』(1926)やイワーノフの『装甲列車14‐69号』(1927)などの成功で揺るぎない地位を占めた。
社会主義リアリズム演劇の指導原理となった「スタニスラフスキー・システム」の本家という甘えなどから1950年代以降停滞ぎみとなったが、70年にエフレーモフを主任演出家に迎えて指導部の若返りを図り、演目にも斬新(ざんしん)なものを加えるようになった。87年にはカメルゲル横町の旧館、モスクビン通りの付属劇場、75年に開場したトゥベルスコイ・ブールバールの新館、それに小舞台をもつ、総員400名(うち俳優157名)の大世帯に膨れ上がったため、新館を諸民族友好劇場と改称、旧館のグループをエフレーモフ、付属劇場、新館のグループを女優ダローニナが指導し、全体をエフレーモフが統轄することになった。58年、68年、88年に来日公演を行っている。89年、エフレーモフの率いる「チェーホフ記念モスクワ芸術座」と、ダローニナの率いる「ゴーリキー記念モスクワ芸術座」の二つの独立した劇団が生まれた。
[中本信幸]
『ネミロビッチ・ダンチェンコ著、内山敏訳『モスクワ芸術座の回想』(1952・早川書房)』
ロシアの劇場。正称はゴーリキー記念国立モスクワ芸術アカデミー劇場Moskovskii khudozhestvennyi akademicheskii teatr imeni M.Gor'kogo。頭文字をとってムハト(MKhAT)と略称される。1898年10月にスタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコによりモスクワに創立された。設立の動機は,低俗な出しもの,場当りと紋切型の芝居,粗雑な装置や背景,主演者中心の安易な興行など,当時の演劇界の通弊と因習を断ちきり,演劇本来の社会的使命をまっとうしようというものであり,一方また,おりから西欧を風靡(ふうび)した演劇革新の声に呼応して,ロシア演劇のリアリズムの伝統をふまえ,高度の理念と生活の真実につらぬかれた舞台を創造しようというものであった。《かもめ》《どん底》など,初期のチェーホフ,ゴーリキーの作品の上演は一作ごとに絶大な反響を呼び,同時に続けられた西欧近代劇の紹介とともに,登場人物の微妙な心理表現,実在感あふれる人間像によって観客を深い感動に誘い,世界演劇の最高峰と仰がれるようになった。1905年のロシア革命の敗退から帝政末期には,現実逃避の神秘主義,象徴主義的傾向をおびた演目もみられたが,1917年の十月革命によって劇場は根本的自己変革を迫られた。ロシア・インテリゲンチャの胎内から生まれたモスクワ芸術座は少なからぬ混乱と苦難にさらされたが,新しい国家と社会体制が安定するにしたがい,ソ連邦の劇場に脱皮することに成功した。その輝かしい成果は2人の創立者の晩年,すなわち第2世代の俳優が成長した20年代後半から第2次世界大戦中の独ソ戦時代に現れている。内外古典劇の正統的演出,ロシア文学の名作の脚色,現代ロシアおよび欧米の作品から成る多彩な上演目録と,リアリズム演劇に対するゆるぎない信条,きびしい自己訓練による役づくり,舞台づくりの伝統は,芸術監督O.N.エフレーモフを中心とする第3,第4の世代に属する座員によって受けつがれ,現代ロシア演劇の指導的役割をになっている。モスクワ芸術座はまた小山内薫の自由劇場,築地小劇場の仕事を通じて日本の新劇運動に大きな影響を与えた。また58年と68年の2回来日し,その名舞台を日本に紹介した。
執筆者:野崎 韶夫
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…翌年,ここからG.B.ショーが《やもめの家》で劇作家としてデビューした。モスクワではスタニスラフスキーが,ネミロビチ・ダンチェンコと語らって1898年に〈モスクワ芸術座〉をつくる。彼らは失敗作とされていたチェーホフの《かもめ》をとり上げて大成功をおさめ,彼に劇作を続ける勇気を与えた。…
… ところが,近・現代に登場した比較的新しい国立劇場になると,今ふれた革新の具現化のような場合もあって,概して開場の動機や成り立ちや仕事ぶりなど全体のトーンが,旧来の国立劇場とは異なる。ロシアの〈モスクワ芸術座〉や,旧東ドイツの〈ベルリーナー・アンサンブル〉や,フランスの〈国立民衆劇場〉(略称TNP)や,イギリスの〈ナショナル・シアター〉(略称NT)などがその好例である。 まず〈モスクワ芸術座〉は,19世紀末,マンネリ,商業主義,大芝居化していた当時の演劇界の大勢に抗して,リアルで純正な,演劇ならではの手ごたえをという革新の願いから革命翌年の1918年に生まれたもので,この事情は同時代のドイツの〈マイニンゲン一座〉や,フランスその他での〈自由劇場〉運動と軌を一にしている。…
…その演劇活動はしだいに世評の的となり,とくに彼自身はすぐれた才能と容姿によって職業劇団から客演の誘いをうけ,またこの劇団に加入を望む者があいついだ。97年ネミロビチ・ダンチェンコと出会い,翌年秋彼とともにモスクワ芸術座を創立した。以来ロシア革命の激動期をはさんで,没年までの40年間に100編におよぶ内外の古典と新作の上演を指導し,芸術座を世界の近代劇運動の頂点に立つ演劇の殿堂たらしめた。…
…やがて自作上演の経験から劇場芸術改革の必要を痛感し,まず低俗な世相劇にふさわしい職人芸の役者ではなく,高い文学的内容をもつ戯曲を形象化しうる俳優の養成を志して,モスクワ・フィルハーモニー学校のドラマ科を主宰した。これがまもなくスタニスラフスキーとの出会いを生む機縁となり,1898年相携えてモスクワ芸術座を創立した。芸術座における彼の第1の功績は,チェーホフ,ゴーリキーを劇作に引き入れ,芸術座の進路を決定した《桜の園》や《どん底》などの名作を生み,またイプセン,ハウプトマンらの西欧近代劇の移植に努めたことである。…
…また西欧の近代劇運動が紹介され始めたこともあり,私営の劇団がいくつか誕生した。なかでも98年にスタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコが創設したモスクワ芸術座は,演出芸術を確立させ,演技のアンサンブルを重視し,せりふの行間に流れる心理をたどりながら人間の真の姿を表現することに成功した。芸術座のチェーホフ劇,ゴーリキー劇などはロシア演劇を飛躍的に発展させたのみならず,世界の演劇に大きな影響を与えた。…
※「モスクワ芸術座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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