スタニスラフスキー(読み)すたにすらふすきー(英語表記)Константин Сергеевич Станиславский/Konstantin Sergeevich Stanislavskiy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スタニスラフスキー」の意味・わかりやすい解説

スタニスラフスキー
すたにすらふすきー
Константин Сергеевич Станиславский/Konstantin Sergeevich Stanislavskiy
(1863―1938)

ロシア・ソ連の俳優、演出家、演劇理論家。本名アレクセーエフАлексеев/Alekseev。芝居好きなモスクワの工場主の家に生まれ、3歳ですでに家庭芝居に出演、幼時から芸術、とくに演劇に関心を抱きながら育った。1877年に兄弟姉妹を中心にアマチュア家庭劇団を結成し、その舞台に立つとともに、演出家として実験を重ねた。この時期にオペレッタミカド』の演出・出演のため、日本人軽業(かるわざ)師一行を家庭に招き、起居をともにしながら彼らの日常生活を細かく観察したが、ここにはリアリズム演劇の創造方法の萌芽(ほうが)がみられる。モスクワに芸術文学協会(1888~98)を設立、トルストイの『文明果実』の初演や、ドストエフスキーの中編『スチェパンチコボ村とその住人』の脚色上演で演出家として認められた。当時流行していた紋切り型の芝居に反対して、真に革新的な民衆演劇を生み出すため、98年に劇作家で演出家のネミロビチ・ダンチェンコと共同でモスクワ芸術座を創立し、『かもめ』(1898)をはじめとする一連チェーホフの作品や、ゴーリキーの『小市民』(1901)、『どん底』(1902)などを初演して輝かしい成功を収め、リアリスティックな手法で舞台を詩的象徴にまで高める独自の演出スタイルを確立し、社会的テーマも打ち出した。関心の振幅はきわめて大きく、一時、象徴主義に共鳴したり、クレイグに傾倒したりした。ロシア革命(1917)の直後には古臭いブルジョア演劇と非難されたが、1930年代に社会主義リアリズムとして再評価された。多数の優れた後進を育て、オペラにも関心を示し、死ぬまで革新的なものを追求する姿勢を保ち続けた。彼が樹立したスタニスラフスキー・システムは、世界の演劇に、とりわけ俳優教育に決定的な影響を与えている。主著に『俳優の仕事』全3巻(1938~48)、自伝『芸術におけるわが生涯』(1926)がある。

[中本信幸]

『蔵原惟人・江川卓訳『芸術におけるわが生涯』全2冊(1983・岩波書店)』『山田肇著『スタニスラフスキー』(1951・弘文堂)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スタニスラフスキー」の意味・わかりやすい解説

スタニスラフスキー
Stanislavskii, Konstantin Sergeevich

[生]1863.1.17. モスクワ
[没]1938.8.7. モスクワ
ソ連の演出家,俳優。本名アレクセーエフ K. S. Alekseev。モスクワ芸術座の創設者として,また芸術座の創造方法であるスタニスラフスキー・システムの創始者として,演劇史上に大きな功績を残した。芸術座は 1898年にスタニスラフスキーとネミロビッチ=ダンチェンコの指導のもとに誕生し,A.チェーホフの『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』,M.ゴーリキーの『小市民』『どん底』,イプセンの『ヘッダ・ガーブラー』『野鴨』,シェークスピアの『ベニスの商人』『十二夜』その他多くの近代劇,内外の古典劇を上演し,ロシア演劇のみならず,世界の演劇に新風をもたらした。芸術座における長年の演出経験の集大成が,俳優術の新しい法則としてのスタニスラフスキー・システムであり,それは著書『俳優修業』 Rabota aktëra nad soboi,自伝『芸術におけるわが生涯』 Moya zhizn' v iskusstve (1926) などに詳しく述べられている。 1954年から 61年にかけて,覚え書,日記,書簡を含む8巻から成る全集が出版された。

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