ラーマン(読み)らーまん(英語表記)Sheikh Mujibur Rahman

デジタル大辞泉 「ラーマン」の意味・読み・例文・類語

ラーマン(Tungku Abdul Rahman)

[1903~1990]マレーシアの政治家。1957年、マラヤ連邦の独立とともに首相に就任。1963年にはマレーシア連邦の結成に成功して初代首相となったが、1970年に内紛により辞任。

ラーマン(Mujib-ur-Rahman)

[1920~1975]バングラデシュの政治家。独立運動の指導者。1972年の独立とともに初代首相、1975年には大統領に就任したが、クーデターにより殺害された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラーマン」の意味・わかりやすい解説

ラーマン(Sheikh Mujibur Rahman)
らーまん
Sheikh Mujibur Rahman
(1920―1975)

バングラデシュ建国の父。ベンガルのファリドプル県に生まれる。1947年カルカッタ(現、コルカタ)のイスラーミーヤ大学卒業、1948年ダッカ大学退学処分。学生時代からムスリム連盟党員として政治活動を行い、1947年パキスタン独立後は1949年アワミ連盟の創立に参画、1953~1966年書記長。1954年東ベンガル州統一戦線政府商工相、1955~1958年制憲・国民議会議員。1966年アワミ連盟委員長に就任後、「6項目要求」を綱領に掲げて東パキスタン州完全自治の運動を展開し、1970年総選挙で過半数を制した。1971年3月バングラデシュ独立戦争開始時に逮捕されたが、4月アワミ連盟の人民共和国独立宣言で大統領に指名された。1972年1月釈放、帰還後は1月の暫定憲法、11月の恒久憲法で首相、1975年1月の憲法改正で大統領となり、民族主義、社会主義民主主義、政教分離主義を国家原則として国家建設を図ったが、同年8月15日軍部クーデターで殺害された。

[浜口恒夫]

『Sheikh Mujibur Rahman:Bangladesh, My Bangladesh, ed. by R. Majumdar (1972, Orient Longman, New Delhi)』


ラーマン(Tungku Abdul Rahman)
らーまん
Tungku Abdul Rahman
(1903―1990)

マレーシアの政治家。マラヤのサルタン家に生まれる。1920~1931年イギリス留学。第二次世界大戦後の1947年ふたたびイギリスに留学、翌1948年ケンブリッジ大学で法学士号を取得。1949年帰国。1951年統一マラヤ国民組織(UMNO)の総裁に就任した。1955年の立法議院選挙でUMNO、馬華公会(MCA)、マラヤ・インド人会議(MIC)からなる連盟党を率いて52議席中51議席を獲得。1957年マラヤ連邦独立とともに首相兼外相に就任した。1963年マラヤ連邦、シンガポールサラワク北ボルネオ(現、サバ)を合併したマレーシア連邦実現に成功、初代首相となる。1969年の人種暴動後の与党内紛により1970年辞職したが、その後も政界長老として言論活動を展開していた。

[黒柳米司]


ラーマン(Zia-ur-Rahman)
らーまん
Zia-ur-Rahman
(1936―1981)

バングラデシュの軍人、政治家。ボーグラー県に生まれる。17歳でパキスタン陸軍に入隊、1965年陸軍少佐。1971年3月26日チッタゴン放送局から歴史的なバングラデシュ独立宣言を行い、独立戦争でゲリラを指揮。1975年8月反ムジブル・ラーマン派軍部クーデター後、陸軍参謀長、11月連続軍部クーデターで実質上全権を掌握、1977年4月大統領に就任した。1978年6月大統領選挙で信任され民政移管に着手、9月バングラデシュ民族主義党を創立、「自力更生」で政治・経済の安定化に努めたが、1981年5月30日軍部内反対派によって殺害された。

[浜口恒夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「ラーマン」の意味・わかりやすい解説

ラーマン
Mujibur Rahman
生没年:1920-75

バングラデシュの〈建国の父〉,初代首相。在職1972-75年。ファリドプル県のジュトダールと呼ばれる中層地主の出身。インド・パキスタン分離独立(1947)以前からカルカッタでムスリム学生活動家として頭角を現した。独立後ダッカに移り,ベンガル語国語化要求運動を皮切りに,東パキスタンの自治を主張する運動にアワミ連盟を率いて指導的役割を果たした。1966年にはアワミ連盟総裁に就任,〈6項目要求〉を中央政府に突きつけ,自治要求を強化した。アワミ連盟は70年の総選挙に圧勝。事態収拾を不可能とみたパキスタン軍政は武力弾圧に乗り出し,バングラデシュ独立戦争が始まる。戦争はインドの介入で71年末バングラデシュが勝利する。ラーマンは抑留中の西パキスタンから帰り,初代首相に就任。しかし,ラーマン政権は独立後の混乱に有効な措置がとれないまま,75年1月強権的な大統領制に移行したが,同年8月クーデタが起こり,大統領のラーマンも殺害された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラーマン」の意味・わかりやすい解説

ラーマン
Rahman, Mujibur

[生]1920.3.17. ベンガル,ファリドプール
[没]1975.8.15. ダッカ
バングラデシュの政治家。ダッカ大学在学中,学生運動を指導,投獄された。 1949年アワミ連盟創設に参加,53~66年同連盟書記長。 54年の東パキスタン州議会選挙で統一戦線結成に尽力し,ムスリム連盟を破った。 H.スラワルディに師事し,57年のアワミ連盟分裂の危機に際しては州政府通産相を辞任してその再建に努め,66年同連盟総裁となった。同年バングラデシュ独立の原因になる「自治権拡大6項目」を提唱,反乱容疑で逮捕された。 70年 12月の制憲議会選挙でアワミ連盟は第一党になったが,A.M.ヤヒア・カーン大統領が 71年3月制憲議会を無期延期したため,ゼネストを呼びかけた。軍の弾圧で内戦となり,逮捕され,8月には死刑判決を受けたが,新国家バングラデシュ誕生後の 72年1月釈放されて帰国し,首相に就任。独自の社会主義と非同盟主義をとり,インド,ソ連と親密であった。戦災と自然災害に加えて,政府,与党の腐敗のため,国内の政治,経済が不安定となり,74年 12月非常事態を宣言。 75年1月憲法を改正して大統領制をとり,みずから大統領に就任,全権を掌握して事態の改善をはかったが,8月軍のクーデターで殺害された。

ラーマン
Rahman, Ziaur

[生]1935. 東ベンガル,シルヘット
[没]1981.5.30. チッタゴン
バングラデシュの軍人,政治家。 17歳でパキスタン陸軍に志願。 71年3月 26日バングラデシュ独立戦争開始時には,チッタゴン連隊の指揮官であったが,独立戦争への参加を決意,チッタゴン放送局を占拠して,最初にバングラデシュ独立を宣言した一人となった。ムクチ=バヒニを組織してゲリラ戦を続け,独立戦争の英雄とうたわれた。独立後は 72年陸軍副参謀長,73年少将に昇進。 75年8月のクーデター後,K.M.アーメッド大統領により陸軍参謀長に任命された。 11月3日に M.ラーマン派の逆クーデターで一時監禁されたが,同7日には対抗クーデターに成功。 A.サエム大統領により参謀総長に任命され,事実上の最高指導者となった。 76年 11月戒厳令総司令官となり,指導者としての地位は不動のものとなった。 77年4月 21日大統領に就任。5月末の国民投票では圧倒的支持を得,78年9月新与党「民族主義党」を結成,議長に就任,79年2月の総選挙で圧勝した。 81年 M.アハメド少将の反乱軍により暗殺された。

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百科事典マイペディア 「ラーマン」の意味・わかりやすい解説

ラーマン

バングラデシュの政治家。建国の父。アワミ連盟総裁として,ベンガル・ナショナリズムを掲げて西パキスタン(現パキスタン)に対する民族運動を展開した。1971年にバングラデシュの独立を達成し,1972年−1975年初代首相。1975年には大統領となったが,同年のクーデタで暗殺された。長女のハシナはアワミ連盟総裁となり,1996年に同国首相に就任。
→関連項目バングラデシュ

ラーマン

ドイツの土壌学者。1918年に出版された《土壌生成と土壌分類》は,風化に対する気候の影響を重視し,現代土壌学の基礎を築いた名著。湿潤温帯の広葉樹林下に生成,分布する褐色森林土を初めて定義づけた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラーマン」の解説

ラーマン(ムジブル)
Sheikh Mujibur Rahman

1920〜75
バングラデシュの初代大統領(在任1972〜75)
全インド−ムスリム連盟に参加。その後,東パキスタンの自治権拡大・独立運動で十数回投獄された。1966年アワミ連盟の総裁に就任し,バングラデシュ独立につながる「自治権拡大6項目」を提唱した。1972年1月,バングラデシュの独立とともに初代大統領に就任し,同時に議院内閣制の発足に伴い,首相を兼任した。社会主義と非同盟主義の政策を展開したが,1973年の石油危機でインフレが激化して社会不安が高まり,75年8月15日の軍事クーデタで殺害された。

ラーマン(アブドゥル)
Tenku Abdul Rahman Putra

1903〜90
マレーシア連邦の政治家
第二次世界大戦後,統一マレー国民組織(UMNO)を結成し,1951年党首となる。1957年マラヤ連邦の独立達成後,同連邦の首相に就任。1963年に結成されたマレーシア連邦の初代首相となり,マレー人・中国人・インド人からなる複合民族国家のリーダーとして活躍,「マレーシアの父」と呼ばれた。しかし,その後,人種対立の激化の中で1970年辞任した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラーマン」の解説

ラーマン
Tungku Abdul Rahman

1903~90

マラヤ連邦およびマレーシアの初代首相(在任1957~70)。クダー州の王族出身のマレー人政治家で,統一マレー人国民組織(UMNO)の創設メンバー。1957年のマラヤ連邦のイギリスからの独立や63年のマレーシア結成に指導的役割を果たした。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のラーマンの言及

【バングラデシュ】より

…全権はヤヒヤー・ハーン戒厳令総司令官が掌握したが,情勢は総選挙を実施する以外に収拾の道はなかった。
[独立]
 70年12月の総選挙で,1949年結党以来東パキスタン自治要求運動の先頭に立ってきたアワミ連盟が,66年3月の〈6項目要求〉を綱領に掲げ,ムジブル・ラーマンの指導下に勝利,国民議会の過半数を制した。ヤヒヤー政権はアワミ連盟内閣の成立を認めるか,従来のパキスタン体制を武力で維持するかの岐路に立たされた。…

※「ラーマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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