リスト(読み)りすと(英語表記)Liszt Ferenc (Franz Liszt)

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

リスト(Liszt Ferenc (Franz Liszt)、ピアニスト、作曲家)
りすと
Liszt Ferenc (Franz Liszt)
(1811―1886)

超人的な技巧で一世を風靡(ふうび)したハンガリー出身のピアニスト、作曲家。ピアノの演奏技巧を拡大し、ロマン的名技主義に一つの頂点を築く一方、多くの先人や同時代の作品をピアノ用に編曲、また自ら作曲してピアノ音楽の表現力を著しく高めた。作曲家としては数多くのピアノ曲のほか、オーケストラ曲の標題音楽的ジャンルとして「交響詩」の完成を成し遂げ、晩年には20世紀の音楽を予告する無調的作品を作曲した。近年「近代音楽の父」的側面からも再評価の気運が高まっている。指揮者や教育者としても精力的な活動をみせ、多くの新作や埋もれていた作品、若い音楽家を世に送り出した。
 1811年10月22日、ハンガリー北西部ショプロンに近いライディングに生まれる。父アダムは名門貴族エステルハージ家の公領管理人で、チェロやピアノを弾き、歌や合唱を好んだアマチュア音楽家。フェレンツ(10歳のときウィーンに出て以後はフランツと名のった)はひとり息子だったが、両親ともに南ドイツ出身でハンガリー(マジャール)人ではない。7歳のときから父親にピアノの手ほどきを受け、目覚ましい上達を示し、8歳から公開演奏会を開いて神童ぶりを賞賛された。20年プレスブルク(ブラチスラバ)での演奏会の成功で、数人の貴族たちから6か年にわたって年額600グルデンの奨学金を贈られることになり、21年には一家をあげてウィーンに出て、ピアノをチェルニー、作曲と音楽理論をサリエリに師事した。才能を見抜いたチェルニーは無報酬で教え、楽譜を与え、生活を援助した。22年ウィーン楽壇にデビューしてセンセーションをよび、翌年4月の演奏会ではベートーベンからも祝福された。9月にウィーンをたち、ミュンヘンなどで演奏会を開きながらパリに向かったが、パリ音楽院への入学は外国人であるという理由で許可されず、パエールに作曲を、ライヒャに音楽理論を学んだ。
 1824年パリ、ロンドンなどで独奏会を開いて大成功を収め、作曲家としてもオペラ『ドン・サンシュ』(1824~25)によって認められた。27年父が死去し、16歳のフランツは生計をたてるため、演奏会のほか多くの生徒を教えた。ピアノの弟子であったフランス高官の娘カロリーヌと大恋愛するが、娘の父親に引き裂かれ、失意のあまり演奏活動を中断、煩悶(はんもん)のなかで文学や宗教書に熱中したが、それが後年の交響詩創造への素地をつくったとみられる。30年の七月革命、作曲家ベルリオーズやショパン、詩人ユゴー、ハイネ、ラマルチーヌをはじめとする文人や画家たちとの交流はリストの人間性や創作に少なからぬ影響を及ぼすことになったが、31年にはバイオリンの名手パガニーニの超絶的な演奏に接して衝撃を受け、「ピアノのパガニーニになる」ことを決意した。
 サロンの新しいスターとして人気絶頂のリストは作家ジョルジュ・サンドを介してダグー伯爵夫人マリーを知ったが、1835年には伯爵夫人は夫と家族を捨ててスイスへ逃れ、リストとの同棲(どうせい)生活に入った。リストはジュネーブ音楽院でピアノを教えながら、ピアノ曲集『旅人のアルバム』(1835~36)、『半音階的大ガロップ』(1838)、『パガニーニによる超絶技巧練習曲集』(1838)などを作曲。マリーとの関係は39年まで続き、3人の子供ブランディーネ、コジマ、ダニエルをもうけた。次女のコジマはハンス・フォン・ビューローと結婚、やがてワーグナーのもとに走り、のちに彼の妻となった。39年ウィーンに演奏旅行して大成功を収め、ブダペストに凱旋(がいせん)し、ヨーロッパ各地を巡って熱狂的な歓迎を受けるなど、当代最高のピアニストとして名声をほしいままにした。有名な『ハンガリー狂詩曲』(1846~85)はこの時代に着手している。
 1847年、キエフでの慈善演奏会を機縁にウィットゲンシュタイン侯爵夫人カロリーネと恋に落ち、夫人の離婚請願に手を尽くす一方、ワイマールで同棲生活を始めた。演奏よりも創作活動に力を注ぐよう説得するカロリーネに動かされて、作曲および宮廷楽団指揮者の仕事に比重を移した彼の「ワイマール時代」は実り多いものであった。ピアノ曲集『巡礼の年・第一年、第二年』(1837~54)、『超絶技巧練習曲集』(1851)、ピアノ・ソナタ ロ短調(1852~53)、交響詩『前奏曲(レ・プレリュード)』(1848、改訂52~53)、同『タッソー』(1849、改訂51.54)、『死の舞踏』(1849、改訂53.59)、ピアノ協奏曲第一番変ホ長調(1849、改訂53.56)、同第二番イ長調(1839、改訂49~61)、『ダンテ交響曲』(1855~56)、『ファウスト交響曲』(1854~57)などリストの代表作が完成し、指揮者としては自作はもとよりワーグナーの初期のオペラやシューベルト、シューマンらの作品を果敢に上演した。またビューローやタウジヒなど多くの弟子を養成し、苦境にあったワーグナーやベルリオーズを支援した。そうした活動によってワイマールはドイツの芸術的中心地の一つとさえなった。
 1861年、カロリーネと挙式するためローマに出向いたが、前夫一族の異議申立てによりカロリーネの離婚許可が得られず、結婚を断念。落胆した彼女は宗教生活に入り、リストも宗教音楽に打ち込んで、オラトリオ『聖エリーザベトの伝説』(1857~62)、同『キリスト』(1862~67)、ピアノ曲『二つの伝説』(1863)などを作曲、聖職者の資格を得て僧衣をまとうようになった。晩年はローマ、ワイマール、ブダペストを中心に生活し、ピアノ曲『暗い雲』(1881)、『無調のバガテル』(1885)などを書いた。86年、娘コジマに会いワーグナーの『パルジファル』『トリスタンとイゾルデ』を見るためにバイロイトに向かったが、感冒に侵され、肺炎のため86年7月31日同地に没した。享年74歳。
 作曲家としてのリストは、形式、和声、管弦楽法のそれぞれに大胆な手法を取り入れ、未来を志向するとともに、文学性やロマンチシズム、雄大なファンタジーによって音楽を革新、各分野にわたる膨大な数の作品を残した。今日もなお、忘れられていた作品が発見されつつある。[青澤唯夫]
『諸井三郎著『リスト』(1965・音楽之友社) ▽アラン・ウォーカー著、内野充子訳『リスト』(1975・全音楽譜出版社) ▽ギイ・ド・プールタレス著、野村千枝訳『愛の人フランツ・リスト』(1967・音楽之友社) ▽Claude Rostand Liszt (1960, Editions du Seuil, Paris) ▽Ronald Taylor Franz Liszt (1986, Grafton Books, London) ▽Franz Liszt Briefe aus ungarischen Sammlunger 1835~1886 (1966, Brenreiter Verlag, Kassel)』

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