ハイネ(読み)はいね(英語表記)Heinrich Heine

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハイネ」の意味・わかりやすい解説

ハイネ
はいね
Heinrich Heine
(1797―1856)

ドイツの詩人。1797年12月13日、ユダヤ人織物商の長男としてデュッセルドルフに生まれる。本名はハリーHarry、ユダヤ教からプロテスタントに改宗後はハインリヒと改名。当時この町はフランス軍の占領下にあり、封建的小国分立のドイツにあって、ここにはまだ自由主義とナポレオン崇拝が息づいていた。だが、ナポレオン失脚に伴いプロイセン領となり、以前にも増す圧政にあえぐことになる。ハイネの生涯を貫く自由と解放への指向性と、覚めた現実観はこの時代に培われた。

小松 博]

ドイツでの半生

1815年、商人を志して修業するが適性に欠け、断念する。19年、富豪の叔父の援助でボン大学へ進学し法律を学ぶ。ボン、ゲッティンゲンベルリンの各大学に在籍し、文学、哲学にも関心を向け、A・W・シュレーゲル、ヘーゲルらの講義を聞く。ベルリン時代(1821~23)、著名な文学者のサロンに出入りし、ホフマングラッベなど新進の作家たちとも交流し、文学的発展が始まる。叔父の娘姉妹への青春の愛と失意の涙が、『詩集』(1821)、『悲劇付叙情挿曲』(1823)の珠玉の詩編に結晶する。24年秋、ワイマールにゲーテを訪ねたが冷遇されて反発したこともある。25年、ゲッティンゲン大学で法律の学位を取得。卒業直前、「ヨーロッパ文化への入場券」を得るためキリスト教(新教)に改宗する。しかしこの切符はハイネには無益だった。弁護士開業という生活設計の夢は破れたが、『旅の絵』第一巻、第二巻(1826、27)、詩集『歌の本』(1827)を発表、名声を高める。

 ハイネの叙情詩の特徴は、俗謡と芸術性の比類のない調和にある。素朴な民謡風のリズムに、音感に富む平易なことばが融合し、形象を明確に造形する。そこに生ずる豊かな音楽性は、多くの作曲家の心をとらえ、ドイツ歌曲の傑作の多くがハイネの詩によっている。しかし彼は叙情詩人の域にとどまらなかった。『歌の本』には社会の矛盾をえぐる詩編がすでにみられ、『旅の絵』第二巻は、その教会、貴族批判のために発禁となった。1820年代後半は詩人ハイネ流離の時代であった。27年、イギリスに渡ったが、なじめずに帰国する。28年、ミュンヘンからイタリアへ旅する。29年、詩人プラーテン伯と論争し、『旅の絵』第三巻で同伯の私生活を暴露して世の非難を浴びる。30年春喀血(かっけつ)する。失意の身をヘルゴラント島で静養する。そこでパリの7月革命の報を聞き、それが彼に新たな力を与えた。翌年、政府批判の結果、逮捕の危険を感じ、祖国を離れ、パリに移住する。

[小松 博]

パリ亡命時代

パリでは、先に亡命していて祖国解放の健筆を振るっていたルートウィヒ・ベルネや、フランス・ロマン派の詩人たちと親交を結ぶ。サン・シモン主義に共鳴、自由奔放な生活を始める。ペンの仕事も精力的で、『フランスの状態』(1833)、『ロマン派』(1834)、『ドイツの宗教と哲学の歴史』(1834)、『ルテーツィア』(1854)など、ドイツ・フランス文化の橋渡しを担う秀逸な論文や評論を発表する。体制維持の反動政策に引きずり込まれる祖国を思い、仮借なく振るう彼の反逆の筆は、ドイツ当局の激怒を買い、1835年、ハイネは「青年ドイツ派」の代表作家として、その全著作が発禁処分となった。経済的痛手もあって、彼はフランス政府から年金を受給、この事実がのちに発覚し、体制迎合のとがめを受ける。

 同じころ、彼が「マチルデ」とよんだ若いフランス娘への愛におぼれる。1841年、昔の友ベルネを『ルートウィヒ・ベルネ 覚え書』(1840)で誹謗(ひぼう)、死者にむち打つ結果となり、ベルネの信奉者と決闘に及び、双方無事であったが、ハイネは万一を思って事前にマチルデと結婚する。その夏、彼女とピレネー山中にいっしょに過ごしたことが、機知と風刺の物語詩『アッタ・トロル 夏の夜の夢』(1847)成立の契機となった。自由奔放な生活、多くの敵との争いの連続が影響したのか、40歳ごろから身体の変調を覚える。43年、ハイネはひそかに12年ぶりに祖国に帰る。その体験が、社会主義革命を予言する壮大な物語詩『ドイツ・冬物語』(1844)として結実した。パリに滞在したマルクスとの交友も、ハイネの詩作に大きく影響した。『ドイツ・冬物語』と同時に、おもにパリ時代に制作した奔放な詩の集成『新詩集』(1844)も上梓(じょうし)する。一方、健康は年々悪化し、48年、「しとねの墓穴」に呻吟(しんぎん)する日々が始まる。脊髄(せきずい)病の苦しみにハイネは打ちのめされた。世間を厭(いと)い、神へ目を向けるようになったのもこのころである。しかし、この極限状態を彼は強靭(きょうじん)な精神力で克服し、よみがえって、『ロマンツェーロ』(1851)、『雑録』三巻(1854)、『告白』(1854)、『メモワール』(1854)などの晩年の重要作品を相次いで完成。ここには、苦悩、神、厭世(えんせい)などの、病が呼び出す領域とは別に、苦痛を諧謔(かいぎゃく)に包み、病を近づけぬたくましさで、新たな境地を開拓するハイネの姿がある。詩人の愛の最後の灯火が、数か月を病床に寄り添うカミラ・セルダンのうえにともった。ハイネは彼女をムーシュ(蠅(はえ))とよんで愛(いとし)んだ。魂の究極に芽生えた愛を、最後の傑作『受難の花』(1856)に託して、1856年2月17日、ハイネは世を去った。葬儀は内輪で行われ、柩(ひつぎ)はパリのモンマルトルに葬られた。

[小松 博]

愛と革命の民衆詩人

せつせつと愛を歌い、峻烈(しゅんれつ)に革命を叫び、果敢に体制を糾弾、かたわら年金を受給、ユダヤ人に生まれ、キリスト教に改宗するなど、矛盾多き生涯を送ったハイネは、その多面性ゆえに位置づけも多様で、とくにヒトラー時代には完全に抹殺された。近年、19世紀最大の革命的民衆詩人の評価が定まる。エッセイスト、評論家としても優れ、辛辣(しんらつ)で風刺に富むさえた筆は、ドイツ語に新しい生命を与えた。

 明治以来森鴎外(おうがい)、上田敏(びん)などによって訳され、ハイネは日本でもっとも愛読されてきた外国詩人の1人である。ハイネ自身の複雑さをそのままに、「涙の叙情詩人」「革命詩人」「厭世詩人」など、多様な受容がなされてきた。今日でも、ハイネはなお新鮮な驚きを内に秘めている。時代が内蔵した矛盾をそのまま自らの矛盾として具現したハイネの全存在が、時代を超越した現代性を備えているゆえんである。

[小松 博]

『井上正蔵訳『ハイネ全詩集』全5巻(1972~73・角川書店)』『井上正蔵著『ハインリヒ・ハイネ――愛と革命の詩人』(岩波新書)』『舟木重信著『詩人ハイネ』(1965・筑摩書房)』『『ハイネ研究――年報』(1977~ ・ハイネ研究図書刊行会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハイネ」の意味・わかりやすい解説

ハイネ
Heine, Heinrich

[生]1797.12.13. ジュッセルドルフ
[没]1856.2.17. パリ
ドイツの詩人,評論家。貧しいユダヤ人商人の子として生れ,ハンブルクの叔父のもとで銀行業務の見習いをしたのち,ボン,ゲッティンゲン,ベルリンの各大学で法律,文学,哲学を学びながら本格的な文学活動に入った。2人の従妹に対する悲恋などを歌った詩集『歌の本』 Buch der Lieder (1827) ,風刺的な紀行文集『旅の絵』 Reisebilder (26~31) などを発表,文名を高めた。 1830年春に喀血,七月革命の知らせを聞き,翌年パリにみずから亡命,新聞,雑誌への寄稿などによりドイツ,フランス相互の文化交流に努めた。ドイツを批判した評論『ロマン派』 Die Romantische Schule (34) ,『ドイツの宗教と哲学の歴史』 Zur Geschichte der Religion und Philosophie in Deutschland (34) により,35年,ハイネと仲間の「若きドイツ」派はドイツ連邦議会により著作発表を禁止されたが,以後も『アッタ・トロル』 Atta Troll (43) ,『ドイツ・冬物語』 Deutschland,ein Wintermärchen (44) など反動ドイツを批判風刺する詩作品を発表,精力的な活動を続けた。脊椎をおかされ,48年頃から病床に伏す身となったが,物語詩集『ロマンツェーロ』 Romanzero (51) などを書き続けた。

ハイネ
Heyne, Christian Gottlob

[生]1729.9.25. ケムニッツ
[没]1812.7.14. ゲッティンゲン
ドイツの古典学者。 1763年ゲッティンゲン大学教授。ホメロスの『イリアス』やウェルギリウスの詩歌の翻訳のほか,エトルリア美術の研究で知られる。

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