出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
イタリアの作曲家。青年時代からウィーンに住み,C.W.グルックの様式を受け継ぐオペラ作曲家として認められる。1780年前後の数年間,ベネチア,ローマ,パリで自作《タラールTarare》(1787。ボーマルシェ台本)ほかを上演して成功。88年から1824年までウィーンの宮廷楽長を務め,また1788年から95年までウィーン音楽芸術家協会会長を兼任した。晩年(1804以降),世間一般の音楽趣味の変化を強く認識してオペラ作曲の筆を断ち,むしろ教育に力を注いでベートーベン,シューベルト,チェルニー,モシュレスら多くの弟子を育てた。モーツァルトを毒殺したという説は今日否定的に扱われている。作品はオペラのほかに宗教曲,世俗的な合唱曲と独唱曲,軽い内容の器楽曲がある。
執筆者:後藤 暢子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリアの作曲家。ベローナ近郊のレニャーゴに生まれる。16歳からウィーンに住み、流麗な作風のオペラで名声を博し、1788年から同地で没する前年まで宮廷楽長の要職にあった。主要作品に『ベネチアの定期市』(1772初演)など四十数曲のオペラがある。また教師としてベートーベンやシューベルトを教えた功績も大きい。しかしその死後、サリエリの名前は、晩年にたてられたモーツァルト毒殺のうわさで有名となってしまった。この風説は今日では完全に否定されている。なお、この伝説を題材とした文学作品に、プーシキンの劇詩『モーツァルトとサリエリ』(1830)、ピーター・シャファーの戯曲『アマデウス』(1979)がある。
[大久保一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…1778年皇太后マリア・テレジアの下命により,ミラノのサンタ・マリア・アッラ・スカラ教会の跡地に建設されたことから命名された。サリエリのオペラ《見知られたエウローパ》(1778)で幕を開けた。19世紀末から20世紀初めにかけて,ベルディの《オテロ》(1887)や《ファルスタッフ》(1893),プッチーニの《蝶々夫人》(1904)など今日イタリア・オペラの古典的名作とされる数々の作品がここで初演されている。…
※「サリエリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新