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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
イギリスの批評家。生涯を通じてロマン主義的,主観的な立場を堅持した。貧しい家庭に育ち,オックスフォード大学を卒業後,雑誌《アシニーアム》の副主筆を経て,雑誌《アデルフィ》を刊行,主筆(1923-48)となった。彼が批評界に登場したのは《ドストエフスキー評伝》(1916)によってである。当時の批評界には,古典主義的,主知的な傾向が強かったが,彼はT.S.エリオットに対してはロマン主義をもって,I.A.リチャーズに対しては主観主義によって対立して,これらの批評家からぬけ落ちていたロマン主義の詩人やD.H.ロレンスを熱烈に擁護する批評,エッセーを発表した。すなわち,《キーツとシェークスピア》(1925),《キーツ研究》(1930),ロレンス評伝《女の息子》(1931),《ウィリアム・ブレーク》(1933),《ジョナサン・スウィフト》(1954)などである。一時共産主義に共鳴し,その後反共的になったが,彼が最も親近性をもった立場はキリスト教的社会主義である。K.マンスフィールドは彼の妻であり,彼女の死後,著書や書簡の編纂に携わった。
執筆者:出淵 博
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トルクメニスタン共和国マリー州の州都。カラクム砂漠の南辺、ムルガーブ川とカラクム運河に臨み、共和国首都アシガバートの東320キロメートルに位置する。人口12万3000(1999)。1937年までメルブМерв/Mervと称した。メルブはアケメネス朝時代に知られ、中央アジアにおける東西交通の要地として経済・文化の面で重要な役割を果たしていたが、1221年モンゴル軍によって破壊された。当時の遺跡は東方30キロメートルのムルガーブ川右岸に残る。1884年軍事上の拠点として現在の町ができ、ロシア革命(1917)後はこの地方の綿花栽培の中心となる。1950年代に始まったカラクム運河開削工事(1986年完成)により、灌漑(かんがい)が進んだ。鉄道の分岐点で農・工業の集散地である。周辺での綿花栽培のほか、繊維工業や製粉、食肉、乳製品などの食品工業、家具・敷物製造などの工業が活発である。近郊には運河の水を利用した水力発電所もある。
マリー州は面積8万6800平方キロメートル、人口114万6800(1999)。人口密度は1平方キロメートル当り13.2人。
[山下脩二]
イギリスの古典学者。オーストラリアのシドニー生まれ。23歳でグラスゴー大学ギリシア語教授となったあと、母校オックスフォード大学のギリシア語欽定(きんてい)講座教授を務めた(1908~36)。多くのギリシア劇の翻訳・校本のほかに『ギリシア叙事詩の成立』(1907)、『エウリピデスとその時代』(1913)、『ギリシア宗教の五段階』(1925)、『詩における古典的伝統』(1927)などがある。
[戸田 基]
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…手形代金の支払はその満期日に行う。 マリーmarry銀行や企業が自社のなかで生じる買為替と売為替を見合わせ,為替持高の極小化を図ることをいう。〈為替のマリー〉ともいう。…
…いくつかの情事と自己中心的なきわめて不幸な結婚を経験。1912年文学青年の貧しいオックスフォード大学生J.M.マリーと同棲(正式結婚は1918年)。彼の編集する《リズム》誌や《アシニアム》誌に,鋭いがきわめて主観的なエッセー,書評を載せるかたわら,《序曲》(1918),《幸福》(1920),《園遊会》(1922),《鳩の巣》(1923)などの短編集を続々発表。…
※「マリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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