ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビューロー」の意味・わかりやすい解説
ビューロー
Bülow, Bernhard Heinrich, Fürst von
[没]1929.10.28. ローマ
ドイツの政治家,外交官。 1874年ドイツ外務省に入り,ローマ,ウィーンなどの大使館に勤めた。 88年ブカレスト駐在公使,93年ローマ駐在大使,97年外相,1900年 C.ホーエンローエ=シリングスフュルストの跡を継いで帝国宰相,プロシア首相となった。外交政策については F.ホルシュタインの強い影響を受け,ウィルヘルム2世の世界政策を推進した。しかし3B政策の遂行にあたってまずイギリスと衝突して中東進出を阻止され,05~06年のモロッコ危機ではその主張を押し通すことに失敗。 08年のオーストリアのボスニア併合問題ではオーストリアを支持してロシアの不興を買い,次いでイギリスとの関係改善をはかったが,A.ティルピッツによる海軍拡張を阻止できずに失敗するなど,ドイツの国際的孤立化を招いた。内政面でも最も重要な帝国とプロシアの関係や選挙法改正などの問題を解決できなかった。 09年増税案を提出したが,皇帝,保守党,中央党などに反対され辞任。 14年全権大使としてローマに派遣されイタリアの中立化に努力したが実らなかった。著書『回想録』 Denkwürdigkeiten (4巻,1930~31) 。
ビューロー
Bülow von Dennewitz, Friedrich Wilhelm, Graf
[没]1816.2.25. ケーニヒスベルク
ドイツ,プロシアの軍人。解放戦争に参加,1812年東・西プロシア長官。 13年グロースレーベン,デネウィッツでフランス軍を破り,ライプチヒの勝利の一因をなした。 14年オランダ,ベルギーのフランス軍を駆逐して北西方面からフランスに侵攻,同年デネウィッツ伯の称号を得た。 15年ワーテルローの会戦ではブリュッヒャー軍の一軍団長としてナポレオン軍の側面を突き,その敗北の主因をなした。戦後ケーニヒスベルク要塞司令官。
ビューロー
Bülow, Hans (Guido, Freiherr) von
[没]1894.2.12. カイロ
ドイツの指揮者,ピアニスト。ピアノを F.ビークとリストに学び,ワーグナーや K.リッターのもとで指揮を学んだ。 1857年にリストの娘コジマと結婚,64年ミュンヘンのルートウィヒ2世の宮廷楽長となり,『トリスタンとイゾルデ』 (1865) などワーグナーの作品の初演をしたが,70年妻コジマはワーグナーのもとに去った。ビューローはその後もワーグナーの作品を紹介し,77~80年にはハノーバー,80~85年にはマイニンゲンで指揮した。
ビューロー
Bülow, Dietrich Adam Heinrich, Baron von
[没]1807. リガ
ドイツ,プロシアの軍人,軍事著作家。 F.ビューロー将軍の弟。 1773年に陸軍に入り,プロシア軍の組織を非難したために捕われ,後日ロシア軍の手中に陥り獄死した。主著『近代軍制の精神』 Geist des neueren Kriegssystem (1799) ,『近代軍制の教則』 Lehrsätze des neueren Kriegs (1805) 。
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