日本大百科全書(ニッポニカ) 「リベスキンド」の意味・わかりやすい解説
リベスキンド
りべすきんど
Daniel Libeskind
(1946― )
アメリカの建築家。ポーランド、ウージ県生まれのユダヤ人。1957年イスラエルのテル・アビブに移住し音楽を学ぶ。65年アメリカの市民権を得、70年までニューヨークのクーパー・ユニオンで建築を学びジョン・ヘイダックに師事。70~71年、イギリスのエセックス大学大学院で建築史と建築理論を学ぶ。その後、78~85年アメリカのクランブルック・アカデミー・オブ・アートの建築学部長を務め、86年、ミラノに建築インテルムンディウムを設立し89年まで館長を務める。88年にはMoMA(ニューヨーク近代美術館)でのディコンストラクティビスト・アーキテクチャー展に参加。89年にはロサンゼルス、ゲティ・センターにおいて美術史・人文科学の客員教授となる。ハーバード大学、エール大学、ロンドン大学などで教鞭をとり、94年よりカリフォルニア大学ロサンゼルス校教授。97年にはベルリンのフンボルト大学哲学部より名誉博士号を授与される。
リベスキンドは、未来への眼差しを強くもった建築家である。「近代建築とは何かという問題にまだ差しかかったばかりといえます。ポスト・モダニズムがいう黙示録的な終末ではなく近代化の後の未来に起こる出来事を意識的に見つめる時代だと思います」。このように語るリベスキンドは楽観主義者であり、過去や歴史的視点を重要視しながらも、未来への眼差しをもって建築を行う。したがって、第二次世界大戦のホロコーストの悲劇的記憶を悲劇として伝えようとするだけではなく、過去の痕跡を通して未来に向けての建築をつくろうとする。またリベスキンドは、「われわれは空間を感覚として捉えることを忘れてきた」と述べ、言語を活用した構造化された思考のみで建築物を捉えようとする状況を批判する。そうすることで、人間の思考の構造化されてしまった拘束状況を打破しようとし、最大限に思考の可能性を追求している。
リベスキンドは1979年と83年にそれぞれドローイング作品「マイクロメガス」「チェンバー・ワークス」を発表し、広く知られるようになる。
受賞歴としては、85年イタリア北東部の都市パルマノバのためのインスタレーション「建築における三つのレッスン」によりベネチア・ビエンナーレ第1席金獅子賞受賞。87年ベルリン国際建築展(IBA)においてベルリンの都市計画案シティ・エッジが第1席。88年にはベルリン博物館付属ユダヤ博物館部門増築計画の設計競技で第1位となり(ベルリン・ユダヤ博物館として1999年竣工)、ベルリンに事務所を設立。92年、ベルリン北方の都市オラニエンブルクの元ザクセンハウゼン強制収容所隣接地域再開発設計競技において名誉賞受賞。93年ベルリン、アレクサンダー広場都市計画設計競技第2位。95年フェリックス・ヌスバウム美術館(オスナブリュック、1998)設計競技、96年ロンドン、ビクトリア・アルバート美術館増築計画の設計競技、97年北帝国戦争博物館(マンチェスター、2001)設計競技、2000年アメリカ、デンバー美術館設計競技、02年王立オンタリオ博物館(トロント)設計競技でそれぞれ第1位となる。また、99年にベルリン・ユダヤ博物館でドイツ建築賞を受賞し、2000年にはゲーテ・メダル文化賞、02年(平成14)には第5回ヒロシマ賞を受賞。その他、91年ベルリン、ポツダム広場都市計画設計競技にも参加。
日本においての活動は、90年、国際花と緑の博覧会において、国内外12組の建築家が構築物を設置したフォリー(小さな建築物)に参加したほか、都市景観プロジェクト魚津・展望の丘(1997、富山県)などがある。
[入江 徹]
『『第5回ヒロシマ賞 Daniel Libeskind』展カタログ(2002・広島市現代美術館)』▽『El Croquis 80; Daniel Libeskind 1987/1996 (1996, El Croquis, Madrid)』