比類なく繊細・緻密な散文をもって,時代の要請に根底からこたえる文学活動を展開した現代ドイツの文学者,哲学者,社会科学者。ベルリンのユダヤ系の家庭に生まれる。ドイツ観念論哲学の伝統から,とりわけその批判的精神を学びとった彼は,はやくから自覚的に,批評性とアクチュアリティを優れた文体において実現することを自身の課題としつつ,《ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念》(1920),《ゲーテの〈親和力〉》(1924),《ドイツ悲劇の根源》(1928)などの文学論のみならず,《暴力批判論》(1921)のような文章をも書いた。後者は,1918-23年の革命期のドイツが生んだ思想的業績のなかで,特筆されるべきものである。他方で彼はこのころ,のちにユダヤ神秘思想史の碩学(せきがく)となる友人G.ショーレムを介して,ユダヤ思想の伝統にも触れていた。
上記のうち,ドイツ・バロック劇の特質をギリシア古典悲劇のそれとは対照的なものとして論じた《ドイツ悲劇の根源》は,教授資格申請論文でもあったが,視野の狭い当時のアカデミズムの受け入れるところとはならなかった。このため20年代後半からのベンヤミンは,主として新聞,雑誌,放送を通じての批評活動によって,生活費を得ることを余儀なくされる。片々たるものであれ無類の光芒を放つ多くの書評や文芸評論が,こうして生みだされることとなる。この時期の彼はフランスのシュルレアリスムから強い刺激を受けるとともに,同時にマルクス主義を学んでいった。マルクス主義へのこの接近は,仕事にあたって〈政治的・社会的な生活空間の緊張〉を度外視することはできない,とする彼の姿勢から当然に発したものだけれども,詩人,劇作家B.ブレヒトとの20年代末からの親交によっても,大いに促進されている。ここから彼がめざしたのは,〈神秘的〉なものをも含めての彼の従来の全経験を生かしうるような,さらにいえば,19世紀ならJ.P.ヘーベルやG.ビュヒナー,ニーチェやランボーの経験,20世紀ならカフカやブレヒトの経験をも生かしうるような〈精妙な〉弁証法的・唯物論的文学・芸術理論の構築だった。この転換期の彼の内面は,短文集《一方通交路》(1928)に映しだされている。
1933年,彼は多くの人と同様に亡命へ踏みきるが,その直前,滅亡に瀕したものを救出するのに似た仕事を二つ仕上げた。20世紀のもっとも美しい散文作品に数えられる回想記《1900年前後のベルリンでの幼年時代》(1932-38)と,過去1世紀間のドイツ人の書簡から人間的な態度をまざまざと表示しているものを発掘し編集した書簡集《ドイツのひとびと》(1936)とである。だがこのころから彼が畢生(ひつせい)の仕事として従事していたのは,19世紀のパリに集中的にあらわれていた(というより,むしろ隠されていた)ヨーロッパ近代文化の問題性,〈進歩〉と破滅的退歩とのからまり合った弁証法的関連を,現在の危機のさなかから,まさに危機にさらされた者の眼でもって浮上させ,〈歴史哲学的な関連のなかで〉根底から,しかもあくまで個々の具体的なものに即して検討し解明してゆこうとする作業,いいかえれば近代人の自己批判としての近代史批判という巨大な作業であって,これはついに完成のいとまをもたなかった。しかしここからは,われわれのために新しい視野を開く前人未踏の試みが,亡命期のエッセー群となって結晶してきている。現代の都市論への示唆に満ちた《パリ--19世紀の首都》(執筆1935)と《ボードレールにおける第二帝政期のパリ》(執筆1938),現代芸術の歴史的・社会的考察のための清新な道標となった《複製技術の時代における芸術作品》(1936),そして彼の方法論を簡潔にまとめた絶筆《歴史の概念について》(別名《歴史哲学テーゼ》,執筆1940)など。これらの労作は近代史批判という主題においてM.ホルクハイマーやT.W.アドルノらのフランクフルト社会研究所メンバーの営為と共通するところをもっており,彼は1933年以降,同研究所と協力関係を保って,その紀要に寄稿していた。
彼のおもな亡命地はパリだった。彼はここでG.バタイユらのフランスの社会科学者たちとも接触していたが,1940年9月,ドイツ軍の侵攻を避けてアメリカへのがれる途上,フランス・スペイン国境のスペイン側の町ポル・ボウで死んだ。自殺と推定される。彼の残した多方面の労作は総じて断片的で,生前には広い読者層をもたなかったけれども,1955年に著作選集が刊行されてから,とりわけ世界が危機の様相をさらに深め,従来の諸理論の手詰りがあらわとなった60年代末以後に,その名声は世界全域に及んだ。日本では,まずその芸術論が中井正一の思想との同時代的な並行関係において注目されたのち,主要な著作のほとんどが訳出されて,彼の影響は文学・芸術のみならず,歴史・社会研究の諸分野に,深く浸透してきている。
執筆者:野村 修
スペインのナバラ生れのユダヤ教ラビ,旅行家。スペイン北部のトゥデラTudelaに住んだ。商業上の目的と同時に,当時のユダヤ教徒の実情を探る意図から,故国スペインを振出しに13年間にわたる長途の旅に出ている。ヨーロッパ,ペルシアを経由し,中国の西辺まで足をのばし,帰路はエジプト,シチリアを通過している。彼の旅行記は12世紀のユダヤ教徒の実情を伝えるばかりでなく,記述にいささか不正確な点があるにせよ,最初に西域を訪れたヨーロッパ人の観察として資料的に貴重な価値をもつ。
執筆者:黒田 壽郎
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ドイツの文芸批評家、思想家。ユダヤ系実業家の子としてベルリンに生まれる。青年期にヘブライ思想とドイツ観念論の影響を受け、のちにマルクス主義思想にも接近した。G・ショーレム、E・ブロッホ、ブレヒト、アドルノらと交友。1933年パリに亡命、やがてフランクフルト社会学研究所(当時、在ジュネーブ、ついでニューヨークに移る)の研究員となる。パリ陥落の後、ナチスの手を逃れる旅の途上、ピレネー山中の小村にて服毒自殺。その作品は、特異な言語哲学と歴史哲学に根ざしつつ精緻(せいち)な文体をもって書かれ、対象の細部に対する鋭敏な感性をみなぎらせている。主著『ドイツ悲劇の根源』(1928)のほか、『一方通行路』(1928)などドイツ批評文学を代表する多数の著作がある。
[浅井健二郎 2015年4月17日]
『野村修編訳『ヴァルター・ベンヤミン著作集』全15巻(1969~1981・晶文社)』▽『川村二郎・三城満禧訳『ドイツ悲劇の根源』(1975・法政大学出版局/浅井健二郎訳・上下・ちくま学芸文庫)』▽『ヴァルター・ベンヤミン著、丘沢静也訳『ドイツの人びと』(1984・晶文社)』▽『浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション』全7巻(1995~2014・ちくま学芸文庫)』
「ベニヤミン」のページをご覧ください。
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…本来は,微風,香り,光輝などを意味するラテン語。精神医学では前兆と訳され,かつては癲癇(てんかん)発作の前ぶれを表す言葉として用いられた。現在では,脳の一部分に局在する癲癇発作(部分発作)そのものと考えられている。その症状は,癲癇の原焦点,すなわち発作の初発部位を表す場合が多いので,診断上重要な徴候である。他人には気づかれず,患者のみが体験する主観的な発作で,頭痛,めまい,上腹部からこみあげてくるいやな感じ(自律神経性前兆),きらきらする点が見える(感覚性前兆),既視感・未視感(側頭葉性前兆)などがある。…
…だが,マン・レイなどシュルレアリストたちからは評価を得たものの,そのプリントをユトリロや藤田嗣治らの画家や美術館に安く売るだけで,極貧のうちに生涯を終えた。しかし,死の直後,W.ベンヤミンはその画期的な写真論《写真小史》で,時代の転換を鋭くとらえたアッジェの作品の重要性に注目している。彼の晩年に知り合った,アメリカの女流写真家でマン・レイの助手であったアボットBerenice Abottの努力により,多くのプリントと原板がニューヨーク近代美術館に収蔵されている。…
…他の諸芸術との対比とアナロジーにおいてやっと〈芸術〉への昇格を許された映画は,こうして,一部の選ばれた映画のみが芸術として遇される代わりに,大部分の映画は〈産業の奴隷〉として切り捨てられるという運命を受け入れざるをえなかった。初期の映画理論が〈いわゆる“芸術”のなかに映画を組み込むために,うかつにも映画を礼拝的要素から解釈しようともがいている姿〉をW.ベンヤミンもその著《複製技術時代における芸術作品》(1934)の中で指摘している。映画を〈芸術〉に高めようとすればするほどこれらの映画理論や映画批評は,結局は,すべての映画を芸術に高めることではなく,逆に一部の〈優れた〉作家や作品だけを特別扱いすることで,映画そのものを〈差別〉せざるをえないという必然性を背負っていたのである。…
…それは叙事演劇が,究極的には,形式の問題ではなく,社会の変革をめざすものだからであった。ブレヒトと親交のあったW.ベンヤミンは,この叙事演劇について,〈この舞台はもはや“世界の象徴としてのステージ”(つまり魔力の場)ではなく,有効に配列された世界の展示場である。その舞台にとって観客は,もはや催眠術をほどこされた被験者の群れではなく,局外者ではない人々の集団(彼らは舞台を通してみずからの要求をみたす)を意味する〉と語っている。…
…1930年代以降,ドイツのフランクフルトの社会研究所,その機関誌《社会研究Zeitschrift für Sozialforschung》によって活躍した一群の思想家たちの総称。M.ホルクハイマー,T.W.アドルノ,W.ベンヤミン,H.マルクーゼ,のちに袂(たもと)を分かったE.フロム,ノイマンFranz Leopold Neumann(1900‐54)たちと,戦後再建された同研究所から輩出したJ.ハーバーマス,シュミットAlfred Schmidt(1931‐ )らの若い世代が含まれる。彼らはいわゆる〈西欧的マルクス主義〉の影響の下に,正統派の教条主義に反対しつつ,批判的左翼の立場に立って,マルクスをS.フロイトやアメリカ社会学等と結合させ,現代の経験に即した独自の〈批判理論〉を展開した。…
…そこでは異化という手法が有効な手段として追求されるようになる。亡命の地,デンマークのスベンボルでのW.ベンヤミン,K.コルシュらとの交流はよく知られているが,そこで彼は反ファシズム運動の活動を続け,《第三帝国の恐怖と貧困》や《カラールおばさんの鉄砲》を書いた。代表作の《肝っ玉おっ母とその子供たちMutter Courage und ihre Kinder》(1939。…
…もともとは,一定の職業につかず遊んで暮らしている者の意であるが,ドイツ・フランクフルト学派の批評家W.ベンヤミンが19世紀の都市を考察するにあたって,重要なキーワードの一つとしてフラヌールflâneur(遊歩者)に注目したことをきっかけに,現代の都市論に欠かせぬ基本的な概念となった。ベンヤミンによれば,都市の遊民を描いたもっともはやい文学作品は,ポーの《群集の人》(1840)で,カフェのテラスからガス灯に照らしだされた街路を行き交うロンドンの群集を観察しつづける孤独な語り手の境位は,やがてポーの翻訳者でもあったボードレールの散文詩《群集》(1861)にうけつがれているという。…
※「ベンヤミン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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