アメリカのロック・ボーカリスト。デトロイト生まれ。本名ビンセント・ファーニアVincent Furnier。奇抜なメイクやコスチューム、お化け屋敷まがいのおどろおどろしい舞台装置、芝居がかったステージングなどからショック・ロックと呼ばれ、1970年代初頭のアメリカで一世を風靡した。いわば社会良識を逆撫でする行為が「ロック」だった時代の覇者であり、後のキッスからマリリン・マンソンに至る、ギミック派ロック・スターのルーツにもあたる。
1968年プロ・ミュージシャンを目指してロサンゼルスにやって来たファーニアは、ある晩、夢の中で「お前は17世紀の魔女『アリス・クーパー』の生まれ変わりだ」というお告げを聞き、バンド名ならびに自身の芸名をアリス・クーパーとする。翌69年、フランク・ザッパFrank Zappa(1940―93)が主催するストレート・レコーズから2枚のアルバムをリリースするも、前衛的な内容でチャート入りも果たせなかった。軌道修正をはかったクーパーは、後にキッスやピンク・フロイド等のプロデュースを手がけるボブ・エズリンBob Ezrinをプロデューサーに迎える。
エズリンはバンドに「魔女『アリス・クーパー』の生まれ変わり」というコンセプトを徹底させ、性的倒錯や頽廃趣味、無軌道な暴力などのモチーフを楽曲に持ち込んでいった。ステージ上でのクーパーは、大蛇を身体に巻き、人形の首を切り落とし、電気椅子や絞首台、ギロチンなどを並べて疑似処刑を披露するなど、ホラー映画まがいのパフォーマンスを行い、評判になる。音楽的にも従来の前衛的要素を払拭(ふっしょく)し、代わりにハードでエンターテインメント色豊かなロックン・ロール・サウンドを導入。71年の『ラブ・イット・トゥ・デス』Love It to Deathから「アイム・エイティーン」がシングル・カットされ、70年代初頭のティーンエイジャーの英雄となる。同シングルは全米チャート21位を記録。以後、蛇のアップをジャケットにした『キラー』(1971)、学校机を模したジャケットを開けると、紙のパンティに包まれたレコードが出てくる『スクールズ・アウト』(1972)、蛇皮の財布をモチーフにした『ビリオン・ダラー・ベイビーズ』(1973)等々、彼らの全盛期を代表するアルバムが続々リリースされる。
作曲に演奏に、クーパー以外のバンド・メンバーも多大な貢献を果たしていたが、エスカレートするパフォーマンスに疑問を抱くようになり、クーパーを残してほどなく全員脱退。75年の『ウェルカム・トゥ・マイ・ナイトメア』以降、クーパーはソロ・アーティストとして活動を再開する。だが独立後のプレッシャーからか、70年代後半には重度のアルコール中毒と精神衰弱に陥ってしまい、エズリンとも決別。80年代に入ってテクノポップやパンク風のシンプル・サウンドにイメージ・チェンジを図るが、いずれもヒットにはつながらず、またエズリンを再起用して全盛期のシアトリカル路線に戻るも、人気回復には至らず長い低迷期が続く。
ところが80年代後半、おりしもハード・ロックやヘビー・メタルがジャンル的な成熟をみせ、同時にクーパーの音楽を聴いて育ってきたミュージシャンたちが一線に立つようになり、そんな時代の歩調と同調するかのように、奇跡のカムバックが実現する。古巣ワーナーからMCAに移籍した『コンストリクター』(1986)をはじめ、『トラッシュ』(1989)、『ヘイ・ステューピッド』(1991)と、全盛期に劣らぬヒット・アルバムを連発。音楽的にはモダン・メタルの体裁を取りつつ、若手人気ミュージシャンやプロデューサーを大胆に起用し、見事な復活劇を遂げたのであった。90年代以降、以前ほどの活発さは認められず、99年発売のボックス・セットで30年間に及ぶキャリアが総括され、一時は引退説までささやかれたクーパーだが、2000年に『Brutal Planet』、2001年に『Dragontown』とつづけてニュー・アルバムを発表。一時はクイズ番組の解答者か、ホラー映画のカメオ出演(クレジットされずに特別出演すること)といった「タレント業」しか活躍の場がなかったことを思えば、50歳を越えてもなお現役アーティストとして活躍している彼は、とても幸運かつ幸福な存在といえよう。
[木村重樹]
『「アリス・クーパー特集」(『BURRN!』1991年6月号・シンコー・ミュージック)』▽『「特集アリス・クーパー、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・ノーラム」(『炎』1997年9月号・シンコー・ミュージック)』
アメリカの小説家。9月15日、ニュー・ジャージー州バーリントンに生まれる。父親はニューヨーク州中央部オトシーゴ湖のほとりにクーパーズタウンを創設した開拓者。文明と荒野の出会うこの辺境の地で成長期を過ごした三男のジェームズは、エール大学に進んだが乱暴な行為により退学。船員、続いて海軍軍人として数年間の海洋生活を経て結婚、家督を相続して農園主となる。30歳のとき妻にイギリスの小説を読み聞かせているうち、もっとよいものを書いてみせると広言したのがきっかけで創作活動に入る。まずイギリスを舞台に、ジェーン・オースティンばりの家庭小説『用心』(1820)を書いたが習作の域を出なかった。次作の歴史小説『スパイ』(1821)では独立戦争時代を背景にワシントンの腹心のスパイを登場させ、その内心の葛藤(かっとう)を描いて成功。以後、草創期のアメリカ文学界で本格的長編小説を手がけ「アメリカのスコット」とよばれるほど文名を高めた。代表的な連作小説『革脚絆(かわきゃはん)物語』(1823~41)は北米新大陸の辺境に生きる白人猟師とインディアンの運命を歴史的展望をもって描き上げ、国民文学の基礎を培った。また海洋小説の先駆者としても『水先案内人』(1824)、『赤い海賊』(1827)などの雄大なロマンがあり、メルビルらに影響を与えている。
クーパーは1826年から7年間滞欧生活を経験し、この間、旧大陸の封建的空気のなかでアメリカ民主主義の利点を説く。ところが帰朝してみると、母国が行きすぎた民主主義と商業主義のために毒され、日増しに俗化していく現実を目の当たりにし、政治・社会評論集『アメリカの民主主義者』(1838)を書いて警鐘を鳴らし、農本主義を地盤とする少数の廉直な紳士が民主的文化国家の柱石とならねばならぬと説いた。1840年代、ニューヨーク州で農園主に対する小作人(クーパーのいう「渡者(わたりもの)」)の暴動が発生すると、ペンをもって理非を正すべく社会問題小説三部作『リトルペイジ家の記録』(1845~46)を世に問うが、結局、時代の潮流に逆らうことはできなかった。また開拓精神と農本主義的理想が衆愚政治や商業主義に侵されていく過程を危機感をもって描いた長編小説『噴火口』(1848)があり、クーパーの晩年の心境が浮き彫りにされている。1851年9月14日没。
[小原広忠]
『小原広忠訳、大橋健三郎解説「アメリカの民主主義者」「アメリカ人観」(『アメリカ古典文庫3 J・フェニモア・クーパー』所収・1976・研究社出版)』▽『小原広忠著「荒野への讃歌――クーパーとソーロー」(『講座アメリカの文化2 フロンティアの意味』所収・1969・南雲堂)』
アメリカの物理学者。バーディーン、シュリーファーとともに超伝導現象を解明する理論(BCS理論)を提唱、1972年三人でノーベル物理学賞を受賞した。1954年コロンビア大学で学位取得、専攻は場の理論、核物理学。1955年超伝導を研究中のバーディーンに招かれイリノイ大学で共同研究を開始。1957年フェルミ粒子液体が超伝導、超流動状態となる機構としてのクーパー対(つい)(電子対)の考えを含むBCS理論をまとめた。1966年ブラウン大学教授、1973年同大学に設立された神経科学センターの所長となり、数学、物理学、生物学、言語学といった学際的な認知研究、脳研究のとりまとめ役を務めた。
[髙山 進]
イギリスの化学者。スコットランドのカーキンティロッホに生まれる。グラスゴーおよびエジンバラ大学で、古典と哲学を修めてのち、大陸に渡り、化学に転じた。1858年、彼はパリのウュルツの研究室にいて、炭素の四価説と分子構造に関する論文『化学の新理論について』を学士院に提出しようとしたが、その論文は哲学的、演繹(えんえき)的であり、あまりに大胆な思考を含んでおり、行きすぎているという理由で師から拒否された。そのうちに同様の論文がケクレによって発表され、ただちに科学界に認められた。クーパーの論文の抄録は1月遅れて学士院に提出されたが、手遅れで、ケクレに与えられた栄誉の一片さえも分担できず、クーパーは30歳で学界から姿を消し、故郷へ帰り、失意と日射病がもとで廃人になり寂しく世を去った。彼の業績が明るみに出たのは、没後14年を経てからで、彼のたった一つの論文は、ケクレよりも表現が近代的で優れており、構造式を与えているなどの点で科学史上不朽の名をとどめることになった。1931年、生誕100年に際してこの悲劇の天才を記念するために生家に碑が建てられた。
[都築洋次郎]
イギリスの外科医、解剖学者。ノーフォークのブルックに生まれる。父は牧師。16歳で、ロンドンのガイ病院で外科医をしていた叔父を頼って弟子入りした。しかしハンターの解剖講義に魅せられて、聖トマス病院に移り、解剖学者としての経歴も積んだ。解剖に執心し、診療の間を縫っては解剖を行った。外科医としては、消毒法の導入以前に、腹部大動脈瘤(りゅう)の手術に成功(1817)したことが特筆される。解剖学者としても、彼の名を冠した乳房や鼠径(そけい)部の靭帯(じんたい)のほか、多くの発見がある。1813年王立外科医会の比較解剖学教授、1827年同会会長、1820年には爵位を受けた。
[中川米造]
アメリカの映画俳優。モンタナ州に生まれる。エキストラから、1926年『夢想の花園』で大役を得た。長身で朴訥(ぼくとつ)善良な個性が人気をよび、一流監督の多くの大作に主演。30年代から50年代にかけてトップスターの座を保ち続けた。『ヨーク軍曹』(1941)、『真昼の決闘』(1952)で二度アカデミー主演男優賞を受賞。ほかに『モロッコ』(1930)、『戦場よさらば』(1932)、『生活の設計』(1933)、『オペラ・ハット』(1936)、『打撃王』(1942)、『誰(た)がために鐘は鳴る』(1943)、『摩天楼』(1949)、『昼下りの情事』(1957)などの代表作がある。
[品田雄吉]
イギリスの詩人。牧師の家に生まれ法律を修める。生来ゆううつ症で生涯に三度発症し、自殺を企てたこともある。過度の精神的緊張から逃れるように詩作に没頭し、無韻詩の大作『課題』(1785)をはじめ滑稽(こっけい)詩、賛美歌集などを残した。彼の本領は、近代産業社会の興隆期にあって、自然美や田園生活を歌い上げ、ロマン主義への道を開いたところにある。書簡も名文として知られる。
[上島建吉]
アメリカの映画俳優。モンタナ州に生まれる。長身,朴訥(ぼくとつ),無口,しかし強い意志を底にひめた〈善良なアメリカ人〉というイメージで,1930年代から50年代末まで長い人気を保った(1937年から57年まで,途中の2度を除き,21年間〈マネー・メーキング・スター〉のベストテンに名をつらねた)。《モロッコ》(1930),《真珠の頸飾》(1936)ではマレーネ・ディートリヒ,《誰が為に鐘は鳴る》(1943),《サラトガ本線》(1945)ではイングリッド・バーグマン,そして晩年の《昼下りの情事》(1957)ではオードリー・ヘプバーンと,その時代の代表的美人女優を相手にロマンチックな役どころを演ずる永遠の二枚目であり続け,《オペラハット》(1936)や《青髯八人目の妻》(1938)のようなコメディから《ベンガルの槍騎兵》(1935)などの冒険活劇,《ヨーク軍曹》(1941)などの戦争映画に至るまで幅広いジャンルの作品に主演。とりわけ《バージニアン》(1929),《平原児》(1935),《西部の男》(1940),《遠い太鼓》(1951),《真昼の決闘》(1952),《ベラクルス》(1954)などにより西部劇スターとして世界中に知られた。また《戦場よさらば》(1932。原作は《武器よさらば》),《誰が為に鐘は鳴る》によって,〈完ぺきなヘミングウェー・ヒーロー〉とも評される(実際,ヘミングウェーはクーパーを念頭において《誰が為に鐘は鳴る》の主人公ロバート・ジョーダンを書いたともいわれる)。カウボーイ,漫画家を経て,1926年に映画俳優としてデビュー。《ヨーク軍曹》と《真昼の決闘》で2度アカデミー主演男優賞を受賞。死の直前,アカデミー協会は彼に特別功労賞を与え,死の当日(5月13日)カンヌ映画祭は〈ゲーリー・クーパー賞〉を新設した。
執筆者:柏倉 昌美
アメリカの小説家。処女作《用心が肝要》(1820)から《現代の世相》(1850)に終わる30年の作家活動を通じて50にのぼる小説,評論,歴史,時評などを書いた。作家として有名となったのは第2作の《スパイ》(1821)によってで,独立後まのないアメリカの作家たちの関心事であり,かつ課題であった〈芸術の素材〉を,独立革命時のワシントン将軍とそのスパイに見いだした。その後同様の素材および17世紀の植民者とインディアンというアメリカの〈歴史〉を扱った《ライオネル・リンカン》(1825),《ウィッシュ・トン・ウィッシュの悲話》(1829),《ウィアンドテ》(1843)などを書いて新しい国の文学への道を開いた。また子どものときに過ごしたニューヨーク州の大森林と湖,青年期を過ごした水夫および海軍士官の生活を,《水先案内》(1823),《二人の提督》(1842)その他で題材とした。つまり森と海という二つの辺境,そして植民時代,独立革命を含むアメリカの過去を〈アメリカ〉文学の題材として開拓し,また後続の作家たちに道を開いた。彼の最も有名な作品は《レザーストッキング物語》(1823-41)であるが,上述二つの題材を生かしながらナティ・バンポーという主人公を通して,民主主義という新しい政体と社会の重要性とそのなかに含まれる危険を指摘し続け,その指摘は今日の世界にそのままあてはまるところが多い。
執筆者:原田 敬一
イギリスの詩人。法律を修めたが,生来の憂うつ症で性格が不安定であり,実務にはつけなかった。1765年,ハンティンドンのモーリー・アンウィンという牧師の知遇を得,その家に寄留するうち,牧師夫妻の快活であたたかい人柄に救われて,精神的にも安定する期間が長くなった。67年牧師の死後はその未亡人メアリーとオルニーに移り住み,相互に敬愛の念を抱きつつ,しかしついに結婚することはなかった。その間に作った《オルニー賛美歌集》(1779),《詩集》(1782)などは,彼の傷つきやすい魂が神や自然に向かってあえぐ様子が見てとれる。6巻5000行を超える無韻(ブランク・バース)の大作《課題The Task》(1785)で筆名は天下にとどろいたが,その後も憂うつ症の発作をくりかえし,とくに96年にメアリーを失ってからは,廃人に近い余生を送ることになる。しかし彼の人なつこさは,友人たちにあてた絶妙なる書簡文ににじみ出ている。
執筆者:川崎 寿彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
スコットランドの化学者.グラスゴー大学で人文学と古典語,エジンバラ大学で論理学と哲学を学んだ後,1854年に大陸に渡り,ベルリンに滞在中に化学に関心をもち,1856年パリに移ってからC.A. Wurtz(ウルツ)の研究室で研究をはじめた.ベンゼンの臭素化やサリチル酸の研究などの後,1858年はじめに炭素の四価性と炭素と炭素の間の結合を論じ,化学式における原子価を表す線をはじめて導入した“化学の新理論について”を書き上げ,Wurtzにパリの科学アカデミーでの発表を依頼した.まだアカデミー会員でなく発表の資格のなかったWurtzにかわって,6月にJ.B.A. Dumas(デュマ)がアカデミーで発表し,まもなく出版された.しかし,F.A. Kekulé(ケクレ)が同様の趣旨の有名な論文を5月に発表していたため,Couperの先取権は認められず,そのことでWurtzとも衝突し,秋にスコットランドに帰国.母国で精神障害となり,以降科学論文を発表することはなく,Kekuléの弟子のR. Anschützが発掘するまで長らく忘れられた存在だった.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…日曜日,自分自身の結婚式の当日にもかかわらず,保安官は復讐にくる殺し屋とその一味を迎えて決闘しなければならないという,西部劇としてはごくありきたりの物語を,緻密(ちみつ)な心理描写(花嫁や町の人々から協力を得られぬ孤立無援の保安官の焦躁,苦悩など)や時間的なリアリズム(殺し屋が乗ってやってくる列車が町に到着する正午までの1時間20分を,たえず時計を画面に見せながら,正確に〈同時進行形〉で描く,等々)で構成し,ホームドラマと恋愛映画を西部劇のなかにもちこんだジョージ・スティーブンズ監督《シェーン》(1953)などとともに,西部劇を子ども向けの活劇からおとなの映画に変えた画期的な作品である。苦悩する保安官を演じたゲーリー・クーパーはこの作品で2度目のアカデミー主演男優賞を獲得(最初のオスカーは《ヨーク軍曹》(1941)で受賞),老成した味を見せる第2のキャリアの出発点になった。【広岡 勉】。…
…W.アービングは《ニッカボッカーのニューヨーク史》(1809)で,歴史をフィクションに移し,《旅人の物語》(1824)では,深刻さを欠き,短編が多くなる末期型のゴシック・ロマンスを発展させ,ホーソーンやポーを先取りした。アメリカのスコットと呼ばれたJ.F.クーパーは五部作《レザーストッキング物語》(1823‐41)において,高貴な開拓者ナティ・バンポーを文明と荒野の接点に置き,アメリカのフロンティアに大ロマンスを展開させた。W.C.ブライアントは大自然をたたえ,〈アメリカ詩の父〉となった。…
…実生活の問題を含んだ題材がガーネットE.Garnettの《袋小路1番地》(1937)からしだいに多く扱われはじめ,60年代のメーンやタウンゼンドJ.R.Townsendにうけつがれ,さらに思春期の少年小説が,ウォルシュJ.P.WalshやペートンK.M.Peytonによって書かれている。
[アメリカ]
アンデルセンと同じ時代に,アメリカではW.アービングが《リップ・バン・ウィンクル》(1802)を書き,J.F.クーパーがインディアンものを1823‐41年につづけて出し,N.ホーソーンがはっきり子どもをめざして昔の歴史や神話を書きなおしていた。52年のストー夫人の《アンクル・トムの小屋》はむしろ社会的な事件であったが,それよりも65年のドッジ夫人M.M.Dodgeの《ハンス・ブリンカー(銀のスケート靴)》は,児童文学上の事件であった。…
…アメリカは〈歴史のない新しい国〉と呼ばれることが多いが,おそらくそのためであろうか,今日では建国の時代,西部開拓時代を扱ったアメリカ国民文学を求める声が高い。文明に汚されない自然児ナティ・バンポーを主人公とし,独立戦争前後の時代を舞台とするJ.F.クーパーの一連の小説(《レザーストッキング物語》)は,スコットの小説を新大陸に移植して成功した歴史小説とみなしてもよい。アフリカ,アジア,南アメリカでも,それぞれの民族のルーツを確認する国民的歴史小説の傑作が生み出されている。…
…アメリカの小説家J.F.クーパーの《開拓者》(1823),《モヒカン族の最後の者》(1826),《大草原》(1827),《探検者》(1840),《鹿狩り人》(1841)からなる5部作。共通する主人公のナティ・バンポーがいつも革脚絆を着用している姿から,このシリーズの名称が生まれた。…
※「クーパー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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