レバノン内戦(読み)レバノンないせん(英語表記)Lebanese Civil War

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レバノン内戦」の意味・わかりやすい解説

レバノン内戦
レバノンないせん
Lebanese Civil War

レバノン国内のキリスト教徒と,イスラム教徒・パレスチナ人の連合勢力との間で長期間続いてきた内戦キリスト教イスラム教のさまざまな宗派グループが複雑な社会を形成してきたレバノンでは,1943年のレバノン国民協約により,1932年の人口調査に基づいて,大統領はマロン派キリスト教徒,首相はスンニー派イスラム教徒,国会議長はシーア派イスラム教徒というキリスト教徒優位の制度が定められた。その後イスラム教徒が国民の過半数をこえるにつれてこの制度への不満が高まり,1958年に内戦状態に陥るなど,政治的に不安定であった。さらに 1970年9月のヨルダン政府軍によるパレスチナ・ゲリラの弾圧後,大量のパレスチナ人とパレスチナ・ゲリラ組織がヨルダンからレバノンに移ってきたことが事態をいっそう複雑にした。1975年4月,首都ベイルート郊外でマロン派のファランヘ党民兵部隊がパレスチナ人の乗ったバスを襲撃した事件をきっかけに,キリスト教徒右派軍とイスラム教徒左派・パレスチナ連合軍との間で大規模な内戦へと発展,その後大量のシリア軍の進駐イスラエル軍の介入などもあって収拾のつかない状態に陥った。1982年にはレバノンからパレスチナ・ゲリラの一掃をはかる目的でイスラエルの大軍がベイルートにまで侵攻,パレスチナ・ゲリラの多くは国外に退去したが,マロン派右派政権とイスラエルとが結びつくことを恐れたイスラム諸勢力がこれに反発してイスラエル軍へのテロ攻撃を続け,またシリアの影響力のもとで 1984年4月にラシッド・カラミ首相の挙国一致内閣が成立したため,1985年にイスラエル軍は南部国境地帯へ撤退した。しかしその後,再びレバノンにやってきたパレスチナ武装勢力と親シリアのシーア派組織アマルとの戦闘が 1986年9月から激しくなり,他方,シーア派内ではアマルとイラン型のイスラム革命を目指すヒズボラ(神の党)との対立も激しくなったことから,再びシリア軍がベイルートに進駐した。1988年8月,次期大統領選出のための国会が開かれたが,シリアの主導に反発するキリスト教徒議員がボイコットして大統領選出ができなかったことから,ミシェル・アウン軍司令官 (キリスト教徒) が軍事政権を発足させた。しかし 1987年カラミ首相暗殺後に首相代行となっていたサリーム・アル・フス首相代行(スンニー派)はこれを非合法として認めず,従来の内閣の継続を主張したため,大統領不在のまま二つの政権が並立するという事態となり,1989年春から再び内戦が激しくなった。同 10月,アラブ連盟調停で内戦収拾のためのレバノン国会議員協議会がサウジアラビアターイフで開かれ,国民和解憲章(ターイフ合意)が採択され,11月には国会でルネ・ムアワド大統領が選出されたが,就任後 11日目に暗殺され,代わってエリアス・ハラウィ大統領が選出された。これを拒否したアウン政権は 1990年10月シリアによって倒され,1991年5月にはシリア=レバノン友好協力条約が結ばれて,シリアの影響力がいっそう強まった。1992年9月,20年ぶりに国会議員の総選挙が実施され,内戦は一応収拾したが,国内にはシリア軍進駐下での収拾のあり方に強い不満を抱いている勢力が少なくなく,情勢はなおきわめて不安定である。

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百科事典マイペディア 「レバノン内戦」の意味・わかりやすい解説

レバノン内戦【レバノンないせん】

1975年―1976年に起きた,レバノンの内戦。複雑な宗派構成をもつレバノンでは,独立以来,人口比に応じてマロン派キリスト教徒が政治の実権を握ってきた。やがてイスラム教徒が多数派となったが,キリスト教徒勢力はこれを認めず,対立が生じた。また,1970年にヨルダンを追われたPLOパレスティナ解放機構)はレバノン南部に拠点を築いたが,これにレバノンのイスラム教徒が結託する形で〈キリスト教徒対イスラム教徒〉という対立の図式がつくられ,首都ベイルートを中心とする内戦に発展した。キリスト教徒勢力はシリアの援軍を頼み,戦闘は全土に拡大した。1976年10月アラブ首脳会議の調停で停戦。ベイルートはキリスト教,イスラムの両地区に分かれた。被災者150万人以上。→レバノン戦争
→関連項目シリア

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世界大百科事典(旧版)内のレバノン内戦の言及

【パレスティナ問題】より

…そこでは,ムスリム,ユダヤ教徒,キリスト教徒が共存する単一の民主的・非宗派的パレスティナ社会の建設が目標とされ,イスラエル市民をも巻き込む新しいパレスティナ人の形成が目ざされるようになった。中東戦争ならびにアラブ諸国・イスラエル間の和平の枠組みを維持すべく戦われた73年の第4次中東戦争(十月戦争,ヨーム・キップール戦争)をはさんで,アラブ諸国も,上のような民族的主体性を発展させつつあったパレスティナ人の運動に対して,抑圧(たとえば1970年のヨルダンの黒い九月事件,75年以降のレバノン内戦)と対応(たとえばPLOをパレスティナ人の唯一の正統の代表機関と認めた1974年のラバトでのアラブ首脳会議)との間を揺れ動いた。また,パレスティナ人の民族的自決権,帰郷または補償を受ける権利の承認こそ中東の平和の前提条件であるべきだ,という認識と,これに沿って中東和平問題の過程にPLOを参加させるべきだという要求とが,国際的に広く受け入れられるようになった。…

【レバノン】より

…その混迷は,数次にわたるパレスティナ難民の流入,とくに1970年代,ヨルダン王制のパレスティナ人弾圧(黒い九月事件)以降の大量流入でいっそう深まった。パレスティナ勢力が南レバノンで大きな軍事的勢力となると,1975‐76年には,キリスト教徒諸勢力とイスラム教徒(レバノン人とパレスティナ人)諸勢力が入り乱れるレバノン内戦に発展し,首都ベイルートは東(キリスト教徒地区)と西(イスラム教徒地区)に分断された。キリスト教徒勢力はシリアの軍事介入を要請し,以後シリア軍がレバノンに駐留することとなった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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