翻訳|Beirut
中東レバノンの首都で地中海に面し人口は約240万人(2018年推定)。1975~90年の内戦で荒廃したが、再開発が進み中東有数の近代都市になった。多数の宗教・宗派が共存し、南部にイスラム教シーア派組織ヒズボラの拠点がある。2005年に中心部で起きた爆弾テロでハリリ元首相が死亡した。19年12月に前日産自動車会長カルロス・ゴーン被告が日本から逃亡した。(カイロ共同)
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レバノンの首都。同国西部にある、東地中海沿岸の港湾都市。人口193万7000(2010年、世界銀行推定)。レバノンの総人口のおよそ46%にあたる人々が暮らす。
古来、この天然の良港を巡る激しい戦いが繰り広げられた。古代、海上交易に従事したフェニキア人の拠点として繁栄、ローマ帝国領時代は政治、商業、学問の府として栄えた。7世紀前半からイスラム圏に入り、12世紀には十字軍の支配下に、16世紀からはオスマン帝国の支配下に入った。19世紀にヨーロッパ諸国の進出が活発になると、港湾都市として大きな発展を遂げた。第一次世界大戦後フランスの委任統治下でシリア・レバノンの首都に、1943年のレバノン独立でその首都となった。
1975年に内戦が始まるまでは、中東の金融、商業、情報、観光、学問の一大中心として「中東のパリ」と謳(うた)われたコスモポリタンな都市だった。1970年にヨルダンを追放されたパレスチナ解放機構(PLO)がベイルートに本部を移し、多くのパレスチナ人も流入した。キリスト教徒と、パレスチナ人を含むイスラム教徒との対立が激しくなり、内戦に突入した。
東ベイルートにはキリスト教徒が集中し、マロン派、ギリシア正教派、アルメニア教会派、カトリックなどがいる。西ベイルートはイスラム教徒地域でスンニー派が多かったが、イスラエル軍の空爆から逃れてきた南部のシーア派が流入、急増した。かつてはユダヤ人コミュニティも存在したが、内戦で多くがベイルートを離れた。イスラム教徒、キリスト教徒の混在していた旧市街は15年に及ぶ内戦でがれきの山と化して流入民が住み着き、郊外には南部から入ってきたシーア派がスラムを形成し、パレスチナ人の難民キャンプもつくられた。1982年のイスラエル軍による猛爆撃でパレスチナ解放機構はレバノンを追放されたが、その後も諸派入り乱れての内戦が1990年まで続いた。
内戦終結後の1992年に首相の座についたラフィク・ハリーリRafiq al-Hariri(1944―2005)は、もともとサウジアラビアでの建築業で財を築いた人物。テクノクラート中心の内閣を組閣して本格的な戦後復興に乗り出し、湾岸諸国から多額の資金が流入した。ベイルートには高級ホテルが建ち並び、官庁、住宅、オフィス街を組み合わせた複合地区の整備が急速に進んだが、インフラ整備に多額の予算を投じた結果、公的債務が財政を圧迫した。1990年代末から回復基調は鈍化し、2001年の国内総生産(GDP)成長率は1%にとどまった。2004年10月まで首相を務めて内戦復興を率いたハリーリは、退任後の2005年2月にベイルート市内で暗殺され、南郊のベイルート国際空港は、彼にちなんでラフィク・ハリーリ国際空港と改称された。
1976年から駐留していた「アラブ平和維持軍」の主体をなすシリア軍は、1989年のタイフ合意(国民和解憲章)で部分撤退が合意され、2001年にベイルートとその周辺地域から撤退した(シリア軍は2005年にレバノンから撤退)。隣国シリアの内戦がレバノンにも飛び火する懸念が高まるなか、2012年10月、ベイルート市内で発生した爆弾テロにより8名が死亡した。
[勝又郁子]
地中海東岸に位置するレバノンの首都。アラビア語ではバイルートBayrūt。人口117万(2003)。有史以前から住民がおり,地名はヘブライ語の〈井戸〉に由来するという。フェニキア時代にはベルタBerutaの港として知られ,ビュブロスの没落後も繁栄した。その後1000年ほどの歴史は不詳だが,ローマ帝国領になって新時代を迎える。四大法学院の一つが置かれ,大司教区となった。551年の大地震と津波で荒廃したあと,防衛力を失い,635年イスラム教徒に征服され,ペルシア人の入植があり養蚕と通商で隆盛となった。10世紀には一時ビザンティン帝国の,また12世紀には十字軍の支配をうけたが,13世紀末以降マムルーク朝の支配下に入り,東西貿易の港として各地からの商人が訪れてにぎわった。18世紀以来人口が増え始め,1860年代にシリアのキリスト教徒が虐殺を逃れて大量に流入したので,キリスト教的色彩を強めながら空前の発展をみる。フランスの植民地時代から東西にまたがる中継貿易の拠点として急発展し,国際色の強い港湾・金融都市となった。
この都市がレバノンの政治的中心になったのは新しいことで,19世紀中葉以降のオスマン帝国の改革の時期にトリポリに代わって知事所在地になってからである。この交替は,〈山のレバノン〉の産出する国際商品の輸出および中継貿易の発展ということ,ならびに沿岸地帯の南部までが一つの政治・経済的なまとまりをもつようになって〈大レバノン〉が構成されてきたのに対応している。19世紀後半からこの都市の膨張と近代化はめざましく,中東で最も近代的な国際都市として有名で,大学も多く,出版活動の中心となった。それが産油国の不動産投資で戦後はさらに加速され,観光の一大中心にもなった。
市街を東西に分けるダマスクス街道を中心にキリスト教徒とイスラム教徒の居住区が大きく分かれ,その北西の海沿い(ラス・ベイルート)は国際色豊かな混住地区である。しかし1975-76年のレバノン内戦および82年のイスラエル軍の侵攻で,ベイルートは主戦場となって荒廃し,東西分断状況は固定化された。とくに西ベイルートは猛爆を受け,都市機能は大きな打撃を受けた。ハムラなどラス・ベイルート地区に昔日のコスモポリタンな面影はなく,東西ベイルートの接点にあたるかつて繁栄した金融・商業地区は無人化したまま復興していない。内戦の引金となったパレスティナ人(難民)も,いまはここを拠点にはしていない。
執筆者:林 武
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レバノンの首都。もともとはフェニキア人の都市。19世紀以降,レバノンの政治,経済の中心であるのみならず,アラブの文化的中心地となるが,1975年からのレバノン内戦で荒廃。現在は復興の途中。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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