翻訳|Lower Canada
カナダのケベック州の古称。1791年から1841年まで使用された。セント・ローレンス川下流地域を意味する。1763年イギリスはフランスから継承した北アメリカ植民地をケベックと称した。その後アメリカ独立革命により多数の王党派(ローヤリスト)がケベック植民地に来住し,オンタリオ湖近辺にフランス系カナダ人とは別の社会を形成した。彼らはケベック法による統治を嫌ったので,1791年イギリス政府はここを二つの植民地,アッパー・カナダとロワー・カナダに分割した。そしてロワー・カナダにも代議制議会が導入されたが,ケベック法による統治が温存された。
政治的・経済的支配層はイギリス人およびイギリス系カナダ人で,住民の大半を占めるフランス系は農民で従順なカトリックであったが,19世紀前半から政治の民主化運動が生じ,1837年にはパピノーを指導者とする小規模な蜂起に発展。その失敗後,両カナダ併合が提案され,連合カナダ植民地成立後,ロワー・カナダはカナダ東部と呼ばれる行政区に再編された。
執筆者:大原 祐子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
現在のカナダ東部、ケベック州の旧名で、イギリス植民地として存在した。この名称は1791年から1841年まで用いられた。1763年フランスからイギリスの手に渡ったケベック植民地に、アメリカ独立革命の結果多数の王党派が移住した。彼らはフランス系の人々から離れて植民地西部に住み、別個の統治体制を要求したすえ、1791年アッパー、ロワーの二つのカナダ植民地創設をみることになった。セント・ローレンス川の下流域を占め、フランス系住民の居住するロワー・カナダでは、選出制立法議会を加えたケベック法による統治原則が温存された。しかし1820年代には、被統治者であるフランス系住民が統治者のイギリス人総督やイギリス人官吏による寡頭政の打破を要求する。議会を通じての改革運動は奏功せず、1837年の実力行使となった。その結果を視察・調査した総督ダーラムは、自治の大幅な拡大とともに、フランス系のイギリス系への同化・吸収を勧告し、ロワー・カナダは「カナダ東部」なる一行政区に再編されて連合カナダ植民地の一部となった。
[大原祐子]
…それもフランス人が定住していた地域へイギリス人が赴いたのであるから,軋轢は当然である。91年,ケベックは二分されて,ケベック法を遵守するロワー・カナダと,イギリス式の政治・経済制度を採るアッパー・カナダの二つの植民地が成立した。カナダにとって宿命的な問題,フランス系とイギリス系の対立抗争はここに決定的となった。…
…しかし,フレンチ・インディアン戦争で1763年に勝利を得たイギリスは,ニューオーリンズに至る広大な版図と約6万5000人のフランス系住民を支配下に収めた。イギリスはケベック法(1774)を制定して,フランス民法,フランス語,カトリック教の維持を認めたが,アメリカ独立革命の結果ケベック植民地の西方に王党派(ローヤリスト)が到来し,彼らはケベック法による封建的統治を嫌い,1791年同植民地は東西に分割され,東のフランス系住民の多い地域はロワー・カナダ植民地となった。ロワー・カナダは農業を主要産業とし,聖職者の影響力が強かったが,19世紀も半ば近くなると,政治の民主化を求める運動が生じた。…
…イギリス領北アメリカ,ロワー・カナダ植民地の政治家。1837年のロワー・カナダにおける反乱の指揮者として知られる。…
※「ロワーカナダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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