アメリカ独立革命(読み)あめりかどくりつかくめい(英語表記)American Revolution

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アメリカ独立革命」の意味・わかりやすい解説

アメリカ独立革命
あめりかどくりつかくめい
American Revolution

イギリス領北アメリカの13植民地連合して本国に反抗し、分離・独立を達成するとともに、新国家を形成し、共和制の確立を成し遂げた革命。この革命の期間は、狭義には1763年のフレンチ・アンド・インディアン戦争の終結から1783年のパリ平和条約の成立までをさすが、広義には、1788年の連邦憲法成立までの期間をさす。前者は「独立」の側面を重視するものであるが、後者は「建国」の側面を重視して、新国家の国家構造を最終的に確定した連邦憲法を革命の総決算として把握しようという歴史家の立場である。アメリカ革命は「独立」と「建国」という二重の課題をもっていたのであり、イギリス革命やフランス革命にない独自の性格をもっている。

[島川雅史]

革命の原因

本国による植民地支配の強化

1763年2月のフレンチ・アンド・インディアン戦争の終結後、イギリス国王ジョージ3世とグレンビルGeorge Grenville(1712―1770)内閣は植民地支配の強化策を次々と打ち出した。それは一つには、戦争の結果獲得した北アメリカの新領土の経営をめぐるものであり、また一つには、戦時財政による国庫の窮迫に対処しようとするものであった。土地規制策、歳入対策の諸立法、重商主義体制の強化策がその柱となったが、それぞれが植民地の強い反対を呼び起こすことになった。

[島川雅史]

国王宣言

戦後イギリスは、カナダからフロリダに及ぶミシシッピ川以東の広大な領土を獲得したが、その経営、とりわけ先住民との関係は重大な問題であった。1763年5月、デトロイト地方で先住民ポンティアックの首長の指導下に起こった反乱を契機として、同年10月に発布されたのが「国王宣言」である。この宣言は、アレゲニー高原以西への白人の移住を禁じ、先住民との交易を本国政府の直轄下に置こうとしたものであるが、植民地人の反発を買い、事実上無視されてしまった。

[島川雅史]

歳入対策立法と重商主義的規制の強化

本国の財政危機に対処するために、さまざまな歳入法が制定されるとともに、重商主義体制の強化が図られた。1764年の砂糖法は、従来黙認されていた密貿易を取り締まり、関税収入の増加を図ろうとしたもので、多くの種類の外国産品に対する輸入税率を規定していた。また1765年の印紙法は、公文書、新聞などあらゆる印刷物に収入印紙を貼付(ちょうふ)することを義務づけるものであった。この税法は、間接税ではなく直接税であるという点で、従来の慣例を破る植民地への圧政として受け取られ、大きな反対運動を巻き起こした。「代表なくして課税なし」というイギリス臣民の権利を掲げて各地で展開された抗議行動は、植民地議会の反対決議から民衆の直接行動までを含むさまざまな形で行われた。全植民地で「自由の子供たち」と名のる民衆運動組織が結成され、印紙販売人や総督宅の焼き打ち、街頭デモなどが激しく繰り返された。1766年に印紙法は撤回されたが、1767年にタウンゼンド諸法がこれにかわった。これは関税・間接税の増徴を図るとともに本国議会の優位を誇示しようとしたものであったが、ふたたび反対運動が起こり、各地で本国産品不買同盟が結成され、本国政府はふたたび後退を余儀なくされた。本国・植民地間の危機を決定的にしたのは1773年の茶法であった。これは東インド会社の救済を目的としたものであったが、商人をはじめとする植民地人の反感をよび、同年のボストン茶会事件を引き起こすことになった。東インド会社の紅茶独占販売権に実力行使で立ち向かった植民地人に対し、本国議会は1774年懲罰諸法を制定し、ボストン港閉鎖、マサチューセッツ植民地の自治の停止などを決定した。さらに、同年のケベック法によって植民地人の西進を阻もうとしたため、本国・植民地間の関係は最悪の状態になった。

[島川雅史]

13植民地の統一戦線

本国への抵抗運動を展開するなかで、植民地には革命権力機構が生まれていた。1772年には植民地内、植民地間の連絡組織としての通信連絡委員会が設けられ、1774年にはジョージアを除く12植民地の代表からなる第1回大陸会議が開催された。翌1775年には、初期の中央政府としての役割を果たすことになる第2回大陸会議が全13植民地の代表によって設立された。

[島川雅史]

戦争と外交

1775年4月、レキシントンコンコードでイギリス軍と植民地民兵隊との間で銃火が交えられ、独立戦争の火ぶたが切って落とされた。交戦開始後も植民地は本国との和解の希望を捨てなかったが、情勢の悪化と、トマス・ペインの『コモン・センス』に代表される独立論の高まりのなかで、1776年7月、大陸会議はついにトーマス・ジェファソン起草の「独立宣言」を発し、戦争は内乱状態から明確に独立のための戦争へと発展することになった。アメリカ軍は装備の悪い民兵を中心とし、ときには衣服すら満足に支給されない状態であったが、郷土防衛のゲリラ戦を展開してイギリス軍に立ち向かい、1777年のサラトガの戦いや、事実上最後の戦闘となった1781年のヨークタウンの戦いでイギリス軍を打ち破った。またイギリスの宿敵フランスは、従来からアメリカに好意的であったが、1778年の米仏同盟条約の締結後は本格的な経済・軍事援助を行った。アメリカは、フランス海軍の力によってイギリス海軍に対抗できるようになり、フランス陸軍の応援も得て戦況を有利に進めた。またスペインも1779年に対英宣戦布告に踏み切っている。

[島川雅史]

邦憲法と連合規約

邦憲法

本国からの独立の戦いと併行して、13の共和ステート(邦)の建設が進められた。植民地特許状をそのまま邦憲法とした例もあるが、多くの邦ではその立案をめぐって論争が行われた。保守派は、民衆とは無知なものであるという観点にたち、民衆の政治的影響力をできるだけ排除し、教育のある富裕者の手によって現行の社会秩序を維持しようと望んだ。一方、急進派は、民主政治の徹底を革命の目的として掲げ、男子普通選挙、議員定数の人口比例、議員・官吏の毎年選挙、信教の自由などの実現を要求した。ペンシルベニアではもっとも急進的な邦憲法が制定されたが、多くの邦では、選挙権・被選挙権の財産資格制限、法律に対する知事の拒否権を含む保守的指導層の意向に沿った憲法がつくられた。

[島川雅史]

連合規約と連合会議

13邦の統一組織としての大陸会議は、諸邦を緩やかに結び付けていたにすぎなかった。一国家としての基本法の必要は早くから認識されており、1778年アメリカ最初の憲法というべき「連合規約」が制定された。その内容は、各邦が主権を維持しつつ、国防、外交、鋳貨、インディアン対策などの限定された権限を、各邦代表からなる「連合会議」にゆだねる、というきわめて分権的な連邦を形成しようとするものであった。

[島川雅史]

結果と意義

1783年のパリ平和条約で「独立」は達成され、連合の時代を経て、1788年成立の合衆国憲法によって「建国」の課題も結論をみた。長子・限嗣相続制などの封建遺制の撤廃、王制廃止など市民革命としての課題でもいちおうの成果をみたが、邦憲法、連邦憲法にみられる普通選挙否定などの保守性、南部黒人奴隷制の展開、原住民インディアンの権利無視に代表される政治的、社会的改革の停頓(ていとん)は、続く時代への課題として残されることになった。

[島川雅史]

『武則忠見著『アメリカ革命の価値体系の研究』(1972・亜紀書房)』『斎藤眞著『アメリカ革命――現状の保守と理念の変改』(『総合研究アメリカ 3』1976・研究社・所収)』『斎藤眞・五十嵐武士編訳『アメリカ古典文庫 16 アメリカ革命』(1978・研究社)』『富田虎男著『アメリカ独立革命』(清水知久・高橋章・富田虎男編『アメリカ史研究入門』第2版・1980・山川出版社・所収)』『今津晃著『アメリカ独立革命』(至誠堂新書)』


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