日本歴史地名大系 「一条氏中村館跡」の解説
一条氏中村館跡
いちじようしなかむらやかたあと
一条教房以下、土佐一条氏代々の居館。天正一七年(一五八九)中村郷地検帳の「中村御北少路」の個所に七反余の「御土居」が記され、一条氏の館跡とみられるが「散田」となっており、そこにある「中ヤシキ」には岩崎佐渡が住んでいる。「御土居」に続いて「同しウヱ森山維摩堂床」が検地されており、「森山」は市街地中央の
〔教房時代〕
教房は応永三〇年(一四二三)一条兼良の長子として生れた。長禄二年(一四五八)関白となったが寛正四年(一四六三)辞し(公卿補任)、やがて応仁の乱を避けて弟の奈良興福寺大乗院門跡尋尊のもとに身を寄せた。さらに応仁二年(一四六八)
教房は文明三年頃にはほぼ幡多郡の国人たちを服従させて幡多庄の一円支配に成功したようにみえる。応仁の乱終結後も教房が帰洛しなかった理由はうかがい知れないが、幡多庄が当時の一条家にとって生命線ともいえるほど重要であったこと、またすでに文明二年、末弟冬良を教房の猶子として一条家の家督を継がせることに決っていたことが、教房の中村定着を決意させた一因かもしれない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報