一条氏中村館跡(読み)いちじようしなかむらやかたあと

日本歴史地名大系 「一条氏中村館跡」の解説

一条氏中村館跡
いちじようしなかむらやかたあと

一条教房以下、土佐一条氏代々の居館。天正一七年(一五八九)中村郷地検帳の「中村御北少路」の個所に七反余の「御土居」が記され、一条氏の館跡とみられるが「散田」となっており、そこにある「中ヤシキ」には岩崎佐渡が住んでいる。「御土居」に続いて「同しウヱ森山維摩堂床」が検地されており、「森山」は市街地中央のほん町一丁目ときよう町一丁目の境にある愛宕あたご(小森山)のことと考えられ、所在地はその西麓と推定される。なお南麓には藤遊亭とよばれた藤見の御殿の跡や、化粧の井戸といわれる刳抜石を用いた古井戸が残り、一条氏との関係が伝えられる。

〔教房時代〕

教房は応永三〇年(一四二三)一条兼良の長子として生れた。長禄二年(一四五八)関白となったが寛正四年(一四六三)辞し(公卿補任)、やがて応仁の乱を避けて弟の奈良興福寺大乗院門跡尋尊のもとに身を寄せた。さらに応仁二年(一四六八)幡多はた庄を回復するため土佐に下向する。その時の様子は尋尊の「大乗院寺社雑事記」同年閏一〇月六日条に「土佐波多ヨリ御書到来、御使者波多郷之内山田庄之内中坊と云者也、九月廿五日申尅乗船、土佐之太平知行之山下船云々、大船也、同廿六日酉尅土佐之かんの うらニ著御、(中略)同船ニテ土佐之井ノ尻マテ可有御下向云々」、一一月二三日条に「土佐大平披官人来、宣旨殿文到来、去十月一日自神浦御乗舟、大平之船也、二日ニ猪ノ尻ニ著岸也、(中略)同十日猪尻ニ参申、無殊儀条上下安堵也云々、大平之女房宣旨殿縁者故無等閑云々」と記されている。これによれば教房の下向には、土佐守護細川勝元の被官で蓮池はすいけ(現土佐市)城主大平氏の援助があったことが知られる。宣旨殿とは教房夫人のこと。以上の記述からみて、教房は同年一〇月半ば頃当地に着いたとみられる。居館の築造に関する史料・伝承はないが、同書文明元年(一四六九)五月一四日条に「土佐幡多御所より彦次郎上洛」とみえ、当地定着を推測させる。以降同書に「土佐御所」(初出は同年一二月晦日条)、「波多中村館」(同三年正月一日条)、「波多御所」(同一五年七月一五日条)、「中村御所」(同一九年一二月七日条)などとみえるが、「土佐御所」の用例はほとんどの場合教房をさしている。

教房は文明三年頃にはほぼ幡多郡の国人たちを服従させて幡多庄の一円支配に成功したようにみえる。応仁の乱終結後も教房が帰洛しなかった理由はうかがい知れないが、幡多庄が当時の一条家にとって生命線ともいえるほど重要であったこと、またすでに文明二年、末弟冬良を教房の猶子として一条家の家督を継がせることに決っていたことが、教房の中村定着を決意させた一因かもしれない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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