幡多庄(読み)はたのしよう

日本歴史地名大系 「幡多庄」の解説

幡多庄
はたのしよう

ほぼ幡多郡全域および高岡郡の一部を占め、鎌倉時代の初めにまず九条家領として成立、その後まもなく一条家に伝領された。一条家の世襲荘園として中世末に至るが、応仁の乱前後から在地土豪に侵略され、兼良の子教房は家領回復をめざして応仁二年(一四六八)幡多庄に下る。教房の努力によってしだいに所領も回復し、以後代代幡多庄内なか(現中村市)に住んで支配にあたり、戦国公家大名として幡多庄を保ったが、兼定の代に長宗我部氏に滅ぼされ、幡多庄は近世的郷村として再編された。

〔成立〕

九条家領幡多庄成立の背景には、平安時代末期、藤原氏と土佐が深い関係を有したことがあった。永暦元年(一一六〇)土佐は関白藤原基実の知行国となり(「山槐記」同年一一月一三日条)、治承二年(一一七八)から翌年にかけては左大臣藤原経宗の知行国となった(「玉葉」治承二年一〇月七日条、「山槐記」治承三年正月六日条)。一方応保元年(一一六一)の幡多郡収納所宛行状写(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)によると、収納使惟宗西禅・郡司散位惟宗朝臣らが千手観音経供田として郡内の御崎みさき(現土佐清水市)などの地三町を金剛福こんごうふく(現同上)に寄進しているが、その文中に「我主君藤原朝臣為御一家各息災延命無病長寿」とある。また正嘉元年(一二五七)四月、金剛福寺焼失のため、幡多庄の荘官・百姓らに再建の経費を出すことを求めた前摂政一条実経家政所下文(同下文案「蠧簡集」所収同文書)には「法性寺大殿(藤原忠通)当国御沙汰之時、率已旧例進新免卅町免田是也」とあり、藤原氏と土佐、藤原氏と幡多郡・金剛福寺の関係をうかがうことができる。元久三年(一二〇六)九条兼実の子良経が急死し、良経を寵愛していた後鳥羽上皇は悲しみのあまり良経の知行国であった越後と讃岐の両国を「御一忌之間、不沙汰歟」とされようとしたが、讃岐国を「忽可飛行之由」との風聞があったので、兼実は越後・讃岐の代りに土佐を拝領することを奏請し、裁可を得た(「三長記」同年四月三日条)。こうして土佐は九条家の知行国となり、その後は良経の子道家が受継いだ(「伏見宮御記録」御逆修部類記、「民経記」寛喜三年一〇月九日条)

道家の時代に幡多郡は荘園となるが、知行国の一部幡多郡だけがどのような経緯で私領化したかは明らかでない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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