日本歴史地名大系 「幡多庄」の解説
幡多庄
はたのしよう
- 高知県:幡多郡
- 幡多庄
〔成立〕
九条家領幡多庄成立の背景には、平安時代末期、藤原氏と土佐が深い関係を有したことがあった。永暦元年(一一六〇)土佐は関白藤原基実の知行国となり(「山槐記」同年一一月一三日条)、治承二年(一一七八)から翌年にかけては左大臣藤原経宗の知行国となった(「玉葉」治承二年一〇月七日条、「山槐記」治承三年正月六日条)。一方応保元年(一一六一)の幡多郡収納所宛行状写(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)によると、収納使惟宗西禅・郡司散位惟宗朝臣らが千手観音経供田として郡内の御一家各息災延命無病長寿
」とある。また正嘉元年(一二五七)四月、金剛福寺焼失のため、幡多庄の荘官・百姓らに再建の経費を出すことを求めた前摂政一条実経家政所下文(同下文案「蠧簡集」所収同文書)には「
已旧例
寄
進新免卅町
免田是也」とあり、藤原氏と土佐、藤原氏と幡多郡・金剛福寺の関係をうかがうことができる。元久三年(一二〇六)九条兼実の子良経が急死し、良経を寵愛していた後鳥羽上皇は悲しみのあまり良経の知行国であった越後と讃岐の両国を「御一忌之間、不
可
及
沙汰
歟」とされようとしたが、讃岐国を「忽可
飛行
之由」との風聞があったので、兼実は越後・讃岐の代りに土佐を拝領することを奏請し、裁可を得た(「三長記」同年四月三日条)。こうして土佐は九条家の知行国となり、その後は良経の子道家が受継いだ(「伏見宮御記録」御逆修部類記、「民経記」寛喜三年一〇月九日条)。
道家の時代に幡多郡は荘園となるが、知行国の一部幡多郡だけがどのような経緯で私領化したかは明らかでない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報