丁村
ようろむら
[現在地名]大野市
上丁・
中丁・
下丁 飯降山の北麓、花山と犬山に囲まれた袋地形にあり、東は犬山村。「丁」の称は長岡京出土木簡に「越前国大野綱丁丈部広公」とみえる。平安時代以降は牛原庄のうち南庄に含まれていたと推定され、室町時代は牛原庄の一部であった。そして丁郷内得円名一町は毎年年貢として七貫文または八貫文を山城上清滝宮(現京都市伏見区)の一切経会料田だったという(→牛原庄)。明応三年(一四九四)五月付洞雲寺領目録(洞雲寺文書)に「本寺領之分」として、一一石八斗・銭三〇〇文について「童子丸半名之内徳、此内三石三百文、丁之彼岸田」とみえ、また大永七年(一五二七)三月一一日洞雲寺隔庵領目録(同文書)には「弐斗 作職丁之太郎丸之左近二郎」とある。
丁村
よろむら
[現在地名]姫路市勝原区丁・勝原区勝山町
熊見村の北西に位置し、揖東郡に属する。北東は奥谷山の尾根筋を境に太田原村(現太子町)、西は大津茂川を挟んで谷村。「播磨国風土記」揖保郡大家里の条によると、宇治連らの遠祖である兄弟二人が大田村の与富等の地を請うて懇田としたという。大田村は同郡大田里に属し、当地は与富等の遺称地とされる。慶長国絵図に「ようろう村」とみえる。
丁村
よろむら
[現在地名]下津町丁
上村の北に位置し、村の東南は白倉山の山地、西は方村、北東は黒田村。中世は浜中庄に含まれ、貞治元年(一三六二)一一月二五日付の沙弥道智譲状写(御前家文書)によれば「丁村地頭職」が黒田村大崎の地頭職などとともに貴志朝綱に譲られている。なお丁の地名は正応二年(一二八九)一二月日付の湯浅宗重跡本在京結番定文案(崎山家文書)に、注記として「丁・塩津今年除之」とみえるのが早い。
慶長六年(一六〇一)の丁村検地帳(「下津町史」所収)には田畝九町七反七畝一三歩で高一六四・九二石、畑畝四町四反五畝二〇歩で高四三・九三八石、桑四八本半、茶三〇匁、屋敷二四が記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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