七曲神社(読み)ななまがりじんじや

日本歴史地名大系 「七曲神社」の解説

七曲神社
ななまがりじんじや

[現在地名]御津町金川

臥龍がりゆう山南麓にあり、祭神は天照大神・八幡大神・春日大神・豊受大神の四柱で、相殿に猿田彦命を祀る。旧村社。七曲大明神とも号した。金川かながわ城主松田氏が相模国七曲神社を勧請し、臥龍山南麓に奉祀したと伝える。また祭神が尾張国の七曲神社と同体であるところから、七曲神社と号したともいう(「七曲大明神勧請本記」、以下注記なきものいずれも当社蔵)。松田氏時代には毎年九月中旬にすげ村のはらに当社および菅村の正八幡宮、草生くそう村の八畜八幡宮、同村久師井の川瀬くじいのかわせ大明神の神輿が参集して祭祀を行っていたという(備前国津高郡七曲神社乃旧事乃書)。永禄一一年(一五六八)の松田氏滅亡後、宇甘うかい川対岸の金川村利国としくにに遷座していたが、慶長八年(一六〇三)日置忠俊が金川を拝領したのち、その家人板津伊織が村民とともに臥龍山東麓の妙圀みようこく(のちの日置氏陣屋)西側に移して再興した。慶長一八年日置氏が金川を去ると、再び荒廃した。寛永一六年(一六三九)日向国に出かけていた金川の商人が、七曲大神の夢告により小社を寄進、その後村民も本殿造営を行い復興に努めた。本殿が完成したとき、商人が日向国で造って寄進していた小社は、古殿ふるどの神社と号し末社として祀られた(七曲神社縁起)

これ以前の寛永九年、日置忠俊は再び金川を拝領、島原の乱ののち妙圀寺跡地に陣屋と家臣屋敷を設け、陣屋町の整備を進めた。寛文九年(一六六九)忠俊の息忠治は諸人の参詣が不便であるとして、松田氏時代の旧社地へ当社を移した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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