日本歴史地名大系 「金川村」の解説
金川村
かながわむら
備前一宮である吉備津彦大明神の神事などを書上げた康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」によれば、「金川上下」の神社の年二度の祭に一宮から「楽頭ノ社家衆十二人」が奉仕していたとある。延文三年(一三五八)四月三日には金河左衛門光泰・金河五郎左衛門泰持が「宇甘郷ノ半分ノ内惣社以下神主職ノ事」について備前守護所へ上申している(「金河光泰申状」県立博物館蔵)。具体的な内容は不明だが、光泰・泰持は金川に居住する松田氏一統の武士とみられている(御津町史)。松田氏は相模国
永禄一一年(一五六八)松田氏滅亡後の金川城には宇喜多直家の弟春家が在城した。関ヶ原の戦で宇喜多氏が滅び、小早川秀秋が備前・美作を領有すると、金川は重臣稲葉伯耆の知行地となったと思われる(「宇甘村十兵衛等連署願書写」海野文書)。
金川村
かながわむら
- 愛媛県:川之江市
- 金川村
現川之江市の南部、
村名は初めは
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇摩郡の項に「金川村 柴山有」とみえる。江戸時代には、天領などを経て宝永元年(一七〇四)から西条藩領。
金川村
かながわむら
金川村
かねがわむら
- 秋田県:男鹿市
- 金川村
男鹿半島南部に位置し、東南は日本海に臨む。背後に標高約七〇メートルの丘陵を負う漁村。海岸に沿い南西は
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「金川村 椿村 はらい川村 本山村 沢村」として二六六石三斗三升三合とある。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に金川村一〇三石と記され、享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高七五石一升五合とある。同一五年の「六郡郡邑記」には家数二一軒とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報