七条通
しちじようどおり
北小路通(旧北小路)と木津屋橋通(旧塩小路)の間を東西に貫通、平安京開設時に開かれた七条大路にほぼ該当。平安京の官設市場である東西市は七条大路に面して市門を開き、門前には市姫社が祀られていた。この東西市が衰退する平安時代後期になると、町尻小路(現新町通)が繁栄の中心となり、七条大路との交差点である七条町には金属工や鋳物師が集住する。また、鎌倉時代には一遍上人が市屋道場金光寺を開いたことで、洛中時宗の拠点ともなった。
通りに沿って人家が多く密集していたものと思われ、七条通を中心とした火災の記事も各記録に頻繁に現れる。
七条通
ななじようどおり
[現在地名]旭川市七条通
明治三二年(一八九九)に新設された町。明治二五年一月旭川村市街予定地の区域設定では「へ通」(一―一三丁目)、同二七年四月の区域変更では「る通」とされた。同三二年八月の字名変更により七条通が設定され、昭和四年(一九二九)四月の町名変更で六―二二丁目が置かれた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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