七里村(読み)しちりむら

日本歴史地名大系 「七里村」の解説

七里村
しちりむら

[現在地名]竜王町七里

須恵すえ村の南西に位置。北流する善光寺ぜんこうじ川を境に東部は平地、西部はかがみ山の山地となっている。地名は古代蒲生郡条里の一五条七里に相当することによる。地内石部いそべ神社の暦応四年(一三四一)五月銘の石灯籠に「七里一結衆」と刻される。貞治元年(一三六二)一一月一三日の小作契約状(須恵八幡神社文書)によれば、作人妙覚が耕作を請負った地は「七里の庄升之定」で四石七斗の地であった。文明一五年(一四八三)三月二日長岡貞信は日吉六社灯明料・山上二季講料に充てられていた「七里村地頭職」上分を静住房憲舜より買取り安堵された(政所賦銘引付)。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉は七里村高四六二石余などを伊勢津城主富田知信に加増している(四月二六日「知行目録」富田文書)


七里村
しちりむら

[現在地名]日光市七里・宝殿ほうでん若杉町わかすぎちよう

南東へ流れる大谷だいや川右岸にあり、今市扇状地の扇頂部にあたる。村域の大部分を山地が占め、北部を志度淵しどぶち川が流れて大谷川に注ぐ。同川段丘上を日光街道が東西に通り、集落は街道沿いに続く。西は日光東につこうひがし町、東は野口のぐち村。村名は、村内生岡いくおかから日光山神橋しんきようまでが六町を一里として数えると七里であることによるとされる(堂社建立記)。南東部の生岡を含む上野うわの(古くは上野口ともいう)は、弘仁一一年(八二〇)空海によって創建されたと伝えられる大日堂を中心に開け、中世には信仰の一拠点であった。慶安郷帳に村名がみえ、日光領、畑高七三石余。元禄一四年(一七〇一)の日光領目録では二〇〇石余。


七里村
しちりむら

[現在地名]五個荘町七里

石馬寺いしばじ村の北東にあるほぼ方形の村。村名は条里の七里にあたる地に集落が開けたことから生じたとされる。応永五年(一三九八)一〇月一六日の後小松天皇綸旨案(勧修寺文書)に「橋爪号七里」とみえ、山前やまさき庄のうちの橋爪はしづめ庄の異称でもあった。永正一六年(一五一九)には「しちりの里」一円の道者職などが計二五貫文で売渡されている(同年二月七日「伊勢道者売券」輯古帖)


七里村
しちりむら

[現在地名]竹田市会々あいあい

稲葉いなば川の南西対岸はおか城下正保郷帳では飛田ひだ郷に属し、田方五二石余・畑方三〇石余で、柴山有・日損所と注記される。弘化物成帳では飛田組のうち、村位は中、免六ツ二分、田四四石余(四町六反余)・畑四九石余(九町三反余)・屋敷三石余(三反余)で、ほとんど全村が中川氏菩提寺の臨済宗妙心寺派碧雲へきうん寺領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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