日本歴史地名大系 「三ヶ村」の解説 三ヶ村さんがむら 富山県:高岡市旧礪波郡地区三ヶ村[現在地名]高岡市三ヶ本保(ほんぼ)村の西、祖父(そふ)川の下流左岸に位置。射水(いみず)郡界に近く、北は今市(いまいち)村、南は横越(よこごし)村。慶長九年(一六〇四)一〇月五日の前田利長判物(「内嶋組御判物等」五十嵐家文書)に「さんか村」とみえ、当村など九ヵ村の隠田一千九〇〇俵余の支配が上開発(かみかいほつ)村孫二郎に申付けられている。正保郷帳では後正寺(ごうしようじ)村と併記して「三ケ村」とみえ、高五五一石余。 三ヶ村さんがむら 富山県:魚津市三ヶ村[現在地名]魚津市三ヶ・三ヶ町・上口(かみぐち)一―二丁目、滑川(なめりかわ)市三ヶ早月(はやつき)川河口部にあり、集落は同川の右岸・左岸に分断されている。右岸は東川越(ひがしかわごえ)、左岸は西川越とよばれる(三州地理志稿)。北は魚津町、東は魚津町田地方(うおづまちでんじがた)。村内を北陸街道が通り、魚津の上口となっている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印は三ヶ村同新村百姓中宛となっており、草高三三一石・免三ツ二歩、明暦二年(一六五六)から万治元年(一六五八)の新田高三五石、小物成は鮭役七匁、鱒役六匁(うち一匁は出来)、鮎川役四匁(三箇国高物成帳)。元禄三年(一六九〇)に八三石の検地引高、享保元年(一七一六)には早月川の川越人二人の屋敷引高があり、一方同一七年に手上高があって天保一一年(一八四〇)の打銀高二八三石余(「高免帳」杉木家文書)。 三ヶ村さんがむら 熊本県:宇土市三ヶ村[現在地名]宇土市走潟(はしりがた)町東は飽田(あきた)郡東走潟(ひがしはしりがた)村、西は緑川(現浜戸川)、南は飽田郡南走潟村、北は同郡西走潟村に接する。近世は飽田郡で銭塘手永に属した。寛永一二年(一六三五)の地撫帳には、田畑畝数二〇町四反一畝余、分米二六〇石二斗余、田畝一九町四反四畝余・畑畝九反七畝余。宝暦一〇年(一七六〇)の下ケ名寄帳では本方は田一三町一反三畝余・高二五二石二斗余、畑一町八反余・高八石六斗、ほかに御藪・定米新畝物・上畝物・御赦免開・七嶋畝物など田畝一反九畝余・畑畝合計六反八畝余がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by