日本歴史地名大系 「魚津町」の解説
魚津町
うおづまち
〔近世以前〕
文明一八年(一四八六)東国に向かった尭恵は六月に越中に入り、
〔支配〕
天正一五年の佐々成政肥後移封に伴い、魚津は前田氏(加賀藩)の支配下に入った。慶長一四年(一六〇九)三月、富山城が火災によって焼失したため前田利長が魚津城に入り、八月まで滞在している(「三壺記」など)。藩政期の初め魚津城には城代がおり、同一三年には京都西本願寺准如がこの地で城代父子の接待を受けている(聞名寺文書)。のち魚津城は廃城となり、城代は郡代となって軍事・警察の任に当たるようになった。万治三年(一六六〇)加賀金沢に新川郡奉行が置かれると、郡代の権限は縮小され、元文二年(一七三七)からは改方と称するようになった(以上「魚津市史」など)。改方は新川郡だけでなく越中一円の治安に当たったが、春夏秋冬には国内を各一ヵ月巡察し、これは三十日まわりとよばれて民衆に恐れられた。一方、魚津町奉行は加賀藩の算用場奉行の支配下に置かれており、寛永一七年(一六四〇)からは郡代の本保嘉右衛門が兼務していたが、万治三年に郡代と町奉行に分れた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報