魚津町(読み)うおづまち

日本歴史地名大系 「魚津町」の解説

魚津町
うおづまち

現魚津市の北西端に位置し、西は富山湾に臨む。北陸街道を中心に栄えた町で、南はかど川の河口部、北は神明しんめい川の河口部にあたる。北は下村木しもむらき村など、東は上村木村本江ほんごう村・友道ともみち村・大光寺だいこうじ村、南は住吉すみよし村・魚津町田地方うおづまちでんじがたさんヶ村に接する。天明六年(一七八六)の魚津町宿鑑帳(越中古文書)などによると古くは小戸おどと称され、大同年間(八〇六―八一〇)から存続しているというが、明確な史料を欠く。中世からは小津おづとよばれ、文化七年(一八一〇)新川郡郷庄附村名書上申帳(加越能文庫)にも「魚津町をずまち」とみえる。

〔近世以前〕

文明一八年(一四八六)東国に向かった尭恵は六月に越中に入り、早月はやつき川を越えてこの地を訪れ、「北国紀行」に黒部川の「四十八か瀬とやらんをはるばると見渡せるに、をつと云所に侍りて」と記している。延徳三年(一四九一)細川政元に同行して越後に下向した冷泉為広は、往路・復路とも「小津」の「椎名館」に止宿している(越後下向日記)。室町期以降、魚津は新川にいかわ郡守護代椎名氏の拠点で、魚津城(椎名館)を中心に交通の要衝として町場化していた可能性がある。戦国後期には、越後上杉氏と織田氏の相克の地となるが、閏極月二二日の上杉景勝書状(歴代古案)によると「魚津町」に火災が発生し、上杉方の足軽等の兵粮が焼失している。なお同書状には天正一〇年(一五八二)と朱書されるが、天正年間に閏極月の年がないことから「閏」の文字は後筆とも考えられ、また翌一一年閏一月のものとも考えられる。同年には佐々成政と上杉勢との戦闘があり、越後方は魚津から追われた。

〔支配〕

天正一五年の佐々成政肥後移封に伴い、魚津は前田氏(加賀藩)の支配下に入った。慶長一四年(一六〇九)三月、富山城が火災によって焼失したため前田利長が魚津城に入り、八月まで滞在している(「三壺記」など)。藩政期の初め魚津城には城代がおり、同一三年には京都西本願寺准如がこの地で城代父子の接待を受けている(聞名寺文書)。のち魚津城は廃城となり、城代は郡代となって軍事・警察の任に当たるようになった。万治三年(一六六〇)加賀金沢に新川郡奉行が置かれると、郡代の権限は縮小され、元文二年(一七三七)からは改方と称するようになった(以上「魚津市史」など)。改方は新川郡だけでなく越中一円の治安に当たったが、春夏秋冬には国内を各一ヵ月巡察し、これは三十日まわりとよばれて民衆に恐れられた。一方、魚津町奉行は加賀藩の算用場奉行の支配下に置かれており、寛永一七年(一六四〇)からは郡代の本保嘉右衛門が兼務していたが、万治三年に郡代と町奉行に分れた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報