出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
富山県東部,呉東地方(呉羽丘陵以東)の中心都市。1952年魚津町ほか近隣11ヵ村が合体,市制。人口4万4959(2010)。南部は北アルプス北端の山地と丘陵性台地,中央部は片貝・早月両川の扇状地を占め,西は富山湾に臨む。現在の市街地は小津(おづ)といわれた小漁村から発達した。定置網・引網漁主体の漁港をもつに過ぎなかったが,近世には米,肥料,新川木綿,魚類などで北陸各地や飛驒と取引し,さらに明治以降は北海道との交易によって商港として栄えた。大正期には米騒動(1918)発祥の地として全国に知られた。第2次世界大戦前はカーバイドを中心とした化学工業のみが近代工業であったが,戦後,化繊織物工業も興り,また近年中小企業の機械工業団地が早月川東岸につくられ,電気機器工業も急速に発展している。北陸本線,富山地方鉄道,北陸自動車道が通じる。1930年に魚津港修築時に地表下1.6m(海面下0.6m)から発見された約2000年前の巨大な杉を主とする魚津埋没林(化石林)は特別天然記念物に指定されており,また81年新装なった水族館も屈指の設備を誇る。4~5月ごろ自然条件に恵まれると見られる沖合の蜃気楼は近年出現回数がきわめて減少している。
執筆者:藤森 勉
1486年(文明18)の《北国紀行》に小津と見える。上杉氏,佐々成政の領有をへて,1587年(天正15)より前田利家が魚津城を修復して城代を置き,寺社・町人を招致し新川地方の中心となる。1638年(寛永15)に廃城となり,町奉行・城代が在勤した。町方・猟師方よりなり,魚津田地方は郡方に所属したので支配外であった。北陸街道の宿場・港でもあった。加賀藩の米蔵,塩蔵,材木蔵があり,蔵宿も置かれ,大坂廻米の積出港であった。1786年(天明6)に豆腐屋24,蠟燭屋23,油小売屋35,紺屋8があり,台網,指網,手繰網が営まれ,猟(漁)船が150あった。同年の戸数は家中71,町方811,猟師方447であった。新川木綿の最大の集散地で,木工業も盛んであった。廃藩置県後,新川県庁,下新川郡役所の所在地であった。
執筆者:高瀬 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…長尾為景の没後その子輝虎(上杉謙信)も越中を制圧しようとし,62年(永禄5)には神保長職を破るが,68年椎名康胤が武田信玄,本願寺と結んで輝虎から離反すると,逆に長職は輝虎と結んだ。翌年輝虎は松倉城の椎名康胤を攻め,魚津城に河田長親をおいて越中侵攻の拠点とした。72年(元亀3)康胤と一向一揆は富山城に陣したが,神保方の要請で越中に出陣した謙信によって退けられた。…
…とくに佐渡相川町の場合は激烈で,6月28日から7月5日にかけ,鉱夫を中心に2000名余が蜂起,軍隊1個中隊により鎮圧された。(2)1897年(明治30)5月下旬富山県魚津町にはじまり,8月から10月にかけ,石川,長野,山形,新潟,福井の各県10ヵ所に及んだ。長野県飯田町の騒動がもっとも大きく,9月1日から3日にかけ,約2000名が米商と警察署を襲撃した。…
…遠方の船が逆さになったり,二段に重なって見えたり,遠方の景色もさまざまに変形して見える。富山湾沿岸の魚津などはその名所とされているが,適当な上暖下冷の条件が満たされさえすれば,どこでも見えるものである。外国でも見えた記録はたくさんある。…
※「魚津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
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