小沼村(読み)おぬまむら

日本歴史地名大系 「小沼村」の解説

小沼村
おぬまむら

[現在地名]西桂町小沼

北東流する桂川の左岸、富士山の噴火が形成した溶岩台地上にある。南方の桂川対岸は倉見くらみ村とさかい(現都留市)。東は同川の支流柄杓流しやくながれ川で、東方から北方にかけては下暮地しもくれち村および夏狩なつがり(現都留市)、西は小道と桂川から取水したいま堰を境として上暮地村(現富士吉田市)。桂川沿いに南西方下吉田しもよしだ(現同上)から東方十日市場とおかいちば(現都留市)に富士道が通る。村域は東西に長く約一里、南北約五町。古くは小坂と称する沼地で人家がなかったが、沼地を埋めて人家ができ、暮地村の枝村となって小沼に改めたという(甲斐国志)。永正五年(一五〇八)七月二八日の旦那願文案(米良文書)に「甲州鶴之郡しゝとみ住」渡辺安衛門とともに、「小野ま」渡辺ぬいの助の名がみえ、御師配下の先達田倉の吉祥坊によって旦那帳に記載されている。「小野ま」は小沼をさすと思われる。「勝山記」享禄三年(一五三〇)三月の記事に米蔵よねくら(米倉)橋が架かったとあり、米倉は当地内にあたるので、小沼からこの橋を通る道が郡内ぐんないの重要な交通路となったことがうかがえる。元亀四年(一五七三)七月三日の小山田信茂長生寺領書立(長生寺文書)によれば、「椎野長徳庵」六貫六〇六文が小山田信茂によって母の逆修のため長生ちようしよう(現都留市)に寄進されている。


小沼村
おぬまむら

[現在地名]飯山市大字常盤ときわ

水沢平みずさわだいら(常盤平)の南部、千曲川沖積地の平坦部を占める。東は堤防を隔てて千曲川、西は水沢村、北は三ッ屋新田みつやしんでん戸隠新田とがくししんでんに接する。

慶長七年(一六〇二)川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「四百拾八石壱斗五升四合 小沼村」とあるのが初見。

戸隠新田は慶長一五年二月から元和二年(一六一六)まで飯山城代であった堀丹後守直寄が飯山町中に命じて開かせた。「急度申渡候、仍小沼新田、飯山町中応人数割符仕ひらかせ可申候、兼如相定三年作取に可申候」と年不詳三月一二日付で飯山町肝煎中への申渡書がある。飯山町中はかん町・した町・さかな町の三町といい伝える(飯山町誌)元禄郷帳は「高一九二石七合 小沼村枝郷戸隠新田村」と枝郷ながら一村として別記。


小沼村
こぬまむら

[現在地名]坂戸市小沼

塚越つかごし村の東にあり、南西は青木あおき村、東は南東流する越辺おつぺ川を境に比企郡上伊草かみいぐさ(現川島町)入間いるま郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田五〇七石・畑二二二石、川越藩領(六一〇石)と旗本酒井領(一一九石)。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六三六石余、反別は田五四町四反余・畑四四町六反余。同帳に書き加えられた新田分は田九八石余、反別は田八町四反余・畑六町八反余。元禄一五年(一七〇二)には全村が川越藩領で(河越御領分明細記)、宝永元年(一七〇四)には同藩領を離れた。その後旗本島田領となり(国立史料館本元禄郷帳など)、化政期には川越藩領(文政一〇年「組合村々定方につき申上書」林家文書など)


小沼村
おぬまむら

[現在地名]喜多方市熊倉町くまぐらまち新合しんごう

高柳たかやなぎ村の南、雄国おぐに山西麓に位置する。東は雄国新田村。小沼組(古くは大塩組)に属した。本村の東方に端村勝本かつもと新田がある。村名は昔小さな沼があったことに由来するという。また古くは上村・下村の二集落に分れていたが、寛文年間(一六六一―七三)以降に檜原ひばら峠越米沢街道の上街道に沿った地に集落を移して一つとなったという(新編会津風土記)。地内に中世の板碑三基があるが、いずれも銘文は不詳。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に小沼とみえ、高九三〇石余。


小沼村
おぬまむら

[現在地名]中野市大字三ッ和みつわ

篠ノ井しののい川に沿って開拓された集落で、延徳平えんとくだいらの周辺では最も低く、たてはな橋辺りよりは四、五メートルも低地のため、千曲川等による洪水の災害を被ることも多く、従って開発も遅れていた。

慶長七年(一六〇二)森忠政検地の頃は、小沼は北大熊きたおおくまとともに大熊村に包含されていたが、元和二年(一六一六)松平忠昌領の頃は三ヵ村は分立し、同八年真田領となってからは、東組は松代まつしろ領で寛文六年(一六六六)検地帳の村高は八八石一斗五升四合、また西組は幕府領で延宝二年(一六七四)検地帳には一二八石二斗五升四合とみえる。もっとも西組は天和二年(一六八二)から元禄一六年(一七〇三)まで坂木さかきの板倉氏領となったが、再び幕府領に復した。


小沼村
こぬまむら

[現在地名]中仙町豊岡とよおか 小沼

小滝こたき山の中腹から流れる小滝川の谷口北にある。西は八日市ようかいち村、北は野中のなか村、南は栗沢くりさわ村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に六九石とみえる。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)の合計当高は八五石余である。同期の「六郡郡邑記」の戸数一三軒。元治元年(一八六四)の仙北郡前北浦村々惣高家数人数馬数帳(小貫文書)では一六戸。

村の東の丘陵上に小沼神社がある。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。社殿内の十一面観音像と聖観音像は県重要文化財。両者とも平安前期の地方仏師の手による秀作である。


小沼村
こぬまむら

[現在地名]館山市小沼

坂井さかい村の西に位置し、南は平砂へいさ浦に臨む。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一〇九石余(うち田六三石余)。同一五年の里見家分限帳によると一門の正木善九郎の給知。正保郷帳では田高八九石余・畑高四二石余で、旗本本多領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では高一三四石余で同じく本多領。天保一三年(一八四二)武蔵忍藩領となる(同一四年忍藩領郷村高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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