三日市宿
みつかいちしゆく
[現在地名]黒部市三日市
北陸街道の上街道と下街道分岐点に位置し、南西二里六町五四間に魚津宿、北東二里二〇町四八間に入膳宿(現入善町)、さらにその北東一里二一町五間に泊宿(現朝日町)がある。元和二年(一六一六)の三ヶ国宿々役屋高書上(温井家文書)によれば、役屋高三九軒の半分を勤めている。「越中道記」によれば、沓懸村より二一町、魚津町まで一里二五町一二間。寛文二年(一六六二)愛本(現宇奈月町)に刎橋が架けられると、山麓沿いに往還道が開け、翌三年三日市村の東一里二〇町にある浦山(現宇奈月町)も宿駅となった(越中古文書)。万治三年(一六六〇)説もある。富山藩領であった浦山辺りの村々が領地替によってすべて加賀藩領となり、三日市村―若栗村―浦山村―舟見村(現入善町)―大家庄村―二ッ村―道下村―泊村(以上現朝日町)を通る往還道が利用されるようになった。この街道は上街道(上往来・上筋)といわれたが、黒部川が増水する夏の間に利用されたので夏街道ともいわれた。これに対し、三日市村―植木村―沓懸村―上野村(現入善町)―入膳村―君島村(以上現同上)―西草野村(現朝日町)―泊町を通る往還道は下街道(下往来・入善街道・下筋)とよんだり、黒部川が減水する冬期間に利用したから冬街道ともよんだ。
三日市宿
みつかいちしゆく
高野街道の宿駅で、三日市村にあった。東西両高野街道は三日市宿北方の長野村で合流するが、西高野街道は堺の大小路を基点とし、次の宿駅三日市まで七里、三日市の次の紀見峠まで三里あった。天保一四年(一八四三)の上田村明細帳(竹鼻家文書)には、馬借所三日市村、馬次宿場と記される。人足二五人・馬二五匹の宿駅で、上田村がその三分の一を勤め、馬八匹・人足八人を準備した。運賃は正徳年中(一七一一―一六)のものを基準に、堺宿まで人足一人一〇二文(銀一匁は六〇文)・本馬一匹二〇五文・軽尻馬一三六文、紀見峠まで人足一人五一文・本馬一匹一〇八文・軽尻馬六八文(辻野家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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