浦山村(読み)うらやまむら

日本歴史地名大系 「浦山村」の解説

浦山村
うらやまむら

[現在地名]秩父市浦山

上影森かみかげもり村・久那くな村の南にある。東側には武甲ぶこう山・子持こもち山・大持おおもち山・鳥首とりくび峠・有間ありま山などの尾根が続き、南は日向沢ひなたざわノ峰・蕎麦粒そばつぶ山・天目てんもく山・大平おおひら山などの尾根を境に多摩郡、西は矢岳の山稜を境に上田野かみたの(現荒川村)。周囲は一〇〇〇―一六〇〇メートル級の山々が連なる。浦山川が急峻な沢を集め、深い渓谷を開きながら南流し、荒川に注ぐ。集落は同川の流域や山の中腹に点在する。地名は、武甲山の裏に位置することによるという(風土記稿・秩父志・増補秩父風土記)。縄文時代の岩陰遺跡や集落跡がある。田園簿では高六五石余・此永一三貫一四〇文とみえ、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、幕末まで同藩領。元禄郷帳では高一三一石余。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると田はなく、畑反別は四六町三反余、同年の忍藩秩父領村々人数改帳写(松本家文書)では人数八六一、うち百姓八五三。


浦山村
うらやまむら

[現在地名]土居町浦山

現土居町南部に位置する山村。東は津根山つねやま(現伊予三島市)、南は別子山べつしやま(現別子山村)、西は上野うえの村、北は畑野はたの村・入野いりの村に接する。村の中を浦山川が南から北へと流れる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩郡の項に「高三拾六石 畠方 浦山村 はへ山有、柴山有」とある。

和名抄」にみえる宇摩郡近井ちかい郷に属したとされ、享保六年(一七二一)の伊予国宇摩郡浦山村明細帳(長野家文書)に「年号不知加藤左馬助様御検地と申伝候当時、名寄帳ヲ以支配仕候」とある。江戸時代には諸領主領を経て一時は津根八日市一柳氏の采地となり、宝永元年(一七〇四)幕府領となって幕末に至る。


浦山村
うらやまむら

[現在地名]宇奈月町浦山

黒部川左岸に位置し、東は下立おりたて村、西は栃屋とちや村、南は山地。北陸街道の上街道が東西に走り、これに沿って集落が発達している。大伴家持がこの地を訪れ、鶏鳴を聞いたから鶏野とりのとよばれたとの伝承がある(越中古文書)。貞和四年(一三四八)北朝方の能登吉見氏頼軍勢が「裏山」に陣取っている(同年一〇月日「得田素章軍忠状」遺編類纂所収得田文書)。元亀元年(一五七〇)一二月一三日の河田長親寄進状(伊勢古文書集)に「佐美郷浦山本光院方」と記され、伊勢神宮へ寄進されている。


浦山村
うらやまむら

[現在地名]秋田市金足浦山

太平たいへい山地の西麓にあり、「梅津政景日記」寛永元年(一六二四)一二月一日条に「黒川・高岡・浦山・堀内・岩瀬山御鷹御遣被成候」とある。同五年一二月六日条にも同様の記述があり、藩政初期から藩主らの鷹野であった。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一七二石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には家数二二軒と記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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