三日市村(読み)みつかいちむら

日本歴史地名大系 「三日市村」の解説

三日市村
みつかいちむら

[現在地名]黒部市三日市

東は荻生おぎゆう村、北は植木うえき村。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。もと桜井さくらいとよんだが、毎月三日に市立てされたので桜井三日市ともよばれたという。謡曲「鉢木」で佐野源左衛門常世が与えられた越中国桜井庄を当地に比定する説がある。「越中志徴」には「泉達録に、越中に四つの名水あり。藤井・花井・桃井・桜井也。桜井は新川郡桜井庄にありと也。今三日市辺なりといへり」とあり、古くから名水の里であった。黒部川扇状地の中心をなし、若栗わかぐり村から浦山うらやま(現宇奈月町)を経て舟見ふなみ(現入善町)に至る北陸街道の上街道と、植木村から沓懸くつかけ村を経て入膳にゆうぜん(現同上)に至る下街道の分岐点の宿場。

正保郷帳では高五八五石余、田方三八町五反余・畑方五反、新田高四三九石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高七四四石、免五ツ三歩、小物成は野役六二匁・山役一七匁・漆役一三匁・伝馬役一七九匁二分・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]福岡町三日市・福岡

鳥倉とりくら村の東、小矢部おやべ川左岸の平地に立地。小名に荒田町あらたまち大野島おおのじま・大野(小矢部川右岸)があった(三州地理志稿)。古くから小矢部川の水運利用と氷見ひみ道が通る水陸交通の要地で、村名も市が開かれたことに由来するとされる。天文一九年(一五五〇)三月二九日の永福寺領田数帳(永福寺文書)に「四俵 宗数有坪三日市渡瀬之西 大屋寄進」「四俵二斗六升 末次分有坪三日市浦 御買地分」とみえる。元和五年(一六一九)の家高新帳に三日市とみえ役家数一九、三日市組に属した。正保郷帳では高八二〇石余、田方四四町七反余・畑方一〇町、新開高九五石余。寛文三年(一六六三)の川西家高付帳(川合家文書)では役家数二〇(ただし船渡役を負担したので全戸無役)


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]庄原市三日市町

西城さいじよう川南の河岸段丘上に集落が位置する。恵蘇えそ郡に属し、東は戸郷とごう川を境として三上みかみ郡庄原村、西南は上原かみはら村と接する。村域南部の大成おおなり遺跡(道路工事のため破損)は古墳時代の住居跡群で、鞴の羽口などが発見されたことにより、工房集落の存在が想定される。

中世にはじび庄内に含まれ、延文五年(一三六〇)正月二三日付の滑円鏡譲状案(山内首藤家文書)に「地庄内上原村地頭職内」として「いちはらの新三日いち」とある。当時は上原村に含まれた地であったらしい。


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]河内長野市三日市町・日東につとう町・大師だいし

天見あまみ川と石見いしみ川の合流点北側にあり、西は上田うえだ村。高野街道に沿い、また観心かんしん寺や延命えんめい寺から大和へ越える道の基点という交通の要地で、宿駅が置かれた。小字名に高野口こうやぐちがある。なお、当地は延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)にみえる布志見ふしみ庄「槻本里」の所在地に比定され、古代南海道の槻本つきもと駅を当地にあてる説もある。

正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高三二七石余、うち幕府領二五〇石・近江膳所藩領七七石余、ほかに山年貢高七石。


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]上市町三日市

上市村の西、上市川扇状地の中央に位置し、西と北は若杉わかすぎ村、南は法音寺ほうおんじ村。滑川なめりかわ町から下田みさだ(現立山町)を経て芦峅寺あしくらじ(現同上)に至る立山道が通り、当地でこの道と町新庄まちしんじよう(現富山市)から上市村に至る上市往来が交差する。村名は三の日に市が開かれたことに由来するという(音杉地誌)。三日市は早くから若杉五社明神の門前市として栄えていたが、やがて上市村に立てられた市が当地の市を凌駕するようになったと伝える(上市町誌)


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]鈴鹿市三日市町・三日市一―三丁目・道伯どうはく

西条にしじよう村の西南の低位段丘上にある。村名の由来は鎌倉時代三の日にここに市が立ったことにあると思われる。親鸞の弟子顕智・善然らが一三世紀の後半ここに真宗を布教したが(高田正統伝)、それは民衆の集まる市が好都合であったからであろう。文献上は、永正一一年(一五一四)八月吉日付の勧進沙門応真の寄進奉加帳の初めに「勢州河曲郡於三日市欲造立上宮皇院状」とみられ、文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「八百七拾七石六斗弐升 三日市村」とある。


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]村上市三日市・岩船三日市いわふねみつかいち瀬波温泉せなみおんせん三丁目

いし川河口右岸にあり、石川を挟み南方対岸は岩船町、北はてら山・浦田うらだ山を隔てて浜新田はましんでん村・松山まつやま村、東は七湊ななみなと(現岩船郡神林村)に接する。貞和三年(一三四七)三月一一日の色部浄秀譲状案写(「古案記録草案」所収文書)によれば、石黒御前に「三日市の五郎次郎かやしきよりうしろのくろのちともに」在家が譲られている。戦国期のものと思われる年月日欠の諸上寺寺領本帳写(諸上寺文書)に「三日イチ新助」の名がみえる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「三日市村」とみえ、本納二七八石二斗九升・縄高三二六石四斗一升七勺、家一五軒とある。南東に岩船潟が広がる。


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]瑞穂町三日市

出羽いずわ村の北、出羽川左岸の平地と河岸段丘に立地。江戸初期に鱒淵ますぶち村から分村。正保四年(一六四七)の古田領郷帳に三日市とみえ、高一〇〇石、免五ツ八分五朱。慶安元年(一六四八)の古田領小物成帳によれば、当村から新かな役として鉄三貫を上納している。宝永石見国郷村帳では鱒淵村枝郷とみえ、高一二二石余。中世には出羽郷の中心地帯で、出羽鉄の運送に使役された牛馬市が開かれ、戦国期毛利氏が領した頃には芸備石交流の駒の足徴収所が置かれていたという。江戸時代には出羽村と交互に牛馬市が開かれたが、明治一九年(一八八六)からは両市同時開催となった。


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]仁賀保町中三地なかみち 三日市

白雪しらゆき川中流の低地に位置し、北は石田いしだ村、東は伊勢居地いせいじ村、南は中野なかの村、西は立井地たていち村に接する。

寛永九年(一六三二)の仁賀保兵庫知行納方帳に村名がある。支配の変遷は芹田せりた村と同じで、寛永一七年以降本荘藩六郷氏領となる。

寛永九年の高は二二八石三斗四升八合、この取米一一六石四斗九升三合四勺四才(仁賀保兵庫知行納方帳)


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]美並村三戸みと 三日市

長良川左岸、南下流は苅安かりやす村。「梅花無尽蔵」長享二年(一四八八)五月一一日条に「宿気良之南部三日市場一山派之禅庵。飯味甚麁。庄司其名曰祝。不出面。頗似無頼」とあり、当地をさすと思われる。ただし上苅安に上市場、下苅安に中市場・下市場の地名があり、三日市場はより広い範囲を示していた可能性もある。慶長郷帳に三ヶ市村とあり、高一三〇石余。正保郷帳では田方二〇石余・畑方一一三石余。寛文四年(一六六四)の遠藤常友大坂御加番の人足書(郡上郡史)に、新中間三日市村彦作がみえる。


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]野々市町三日市町

手取川扇状地北東部、ごう用水の分流大塚おおつか川流域に位置し、西は徳用とくもと村。正保郷帳に村名がみえ高七七八石余、田方四九町七反余・畑方二町一反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高七九九石、免五ツ二歩(三箇国高物成帳)。同年間の家高数三・百姓数二二(高免付給人帳)。江戸期には熟瓜・菓子瓜などを産し、金沢城下に出荷した(加賀志徴)


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]福野町上三日市かみみつかいち

たび川右岸に位置し、北は寺家新屋敷じけあらやしき村、東は福野村。当地には福野町発祥の地と記した石碑があり、中世の市が三の日に立った場所とされているが、史料上は未詳。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五石、免三ツ一歩(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高一〇石(「高物成帳」菊池家文書)


三日市村
みつかいちむら

[現在地名]舞鶴市字三日市

由良川右岸、由良川蛇行帯凸面にあたる耕地に面した山麓集落で一部は扇状地にある。

慶長検地郷村帳に高三三四・四四石「三日市村」とみえ、土目録でも高は変化せず、内訳は田方二五五石余、畑方七八石余。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚によれば農家戸数五四。

人家の集まる谷に二瀬ふたせ川が流れ、由良川に合流、この二つの川の舟運により交易物資が運ばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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