三木城跡(読み)みきじようあと

日本歴史地名大系 「三木城跡」の解説

三木城跡
みきじようあと

[現在地名]三木市上の丸町

美嚢みの川左岸の河岸段丘上に築かれた中世の城跡で、姫路と有馬ありま(現神戸市北区)を東西にほぼ直線に結ぶ街道の中間点にあたる。標高四五メートル、比高二〇メートルにあるうえまるという本丸に相当する郭以下、南構みなみがまえ新城しんじようたかまるみやうえ要害ようがいからなる。

当城は別所則治によって築城された。文明一五年(一四八三)赤松政則真弓まゆみ(生野峠)の合戦で山名政豊に敗れ、翌一六年浦上則宗らによって追放されたが、則治は政則を前将軍足利義政にとりなし復帰させている(「赤松別所大蔵少輔則治公孺像賛」翠竹真如集)。長享二年(一四八八)には小寺氏とともに守護赤松氏の留守を預かるなど(「蔭涼軒日録」同年一〇月四日条)、東播磨の守護代相当の地位に就いており、この頃三木城が築かれたらしい。古城記の多くは明応元年(一四九二)の築城とする。城主の別所氏は則治―某―村治―安治―長治と続く。赤松家臣団のなかでは守護家に近く、対立する細川高国与党の浦上村宗は享禄二年(一五二九)一〇月三日三木城を攻め、西出張口で合戦となった(同年一一月一〇日「赤松村秀感状」江見文書)。翌三年五月別所村治は東条とうじよう(豊地城、現小野市)に拠る浦上派の依藤氏を攻めたが七月に敗れ、依藤氏の救援に動いた浦上村宗は三木城をはじめ小寺こでら(御着城、現姫路市)などを攻め落している(細川両家記)

三木城跡
みきじようあと

[現在地名]尾鷲市三木浦町

三木浦町の北、たにの山(四五五・五メートル)の南麓にある。三木小学校が城跡。海辺に近く見張りの城山がある。「紀伊続風土記」に「本丸東西十二間南北十三間、二丸五十間十四間、城山周三町半、三方海に臨む、三鬼新八郎の城跡なり」とあり、城山に小祠を建て神を祀り、元禄年中(一六八八―一七〇四)ここで八幡大菩薩と透彫にした鍍金の矛首を掘出したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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