三村庄(読み)みむらのしよう

日本歴史地名大系 「三村庄」の解説

三村庄
みむらのしよう

長承元年(一一三二)一〇月、鳥羽上皇御願寺として建立された京都宝荘厳ほうしようごん(跡地は現京都市左京区)領庄園一二ヵ所の一つ。皇室領庄園でのち京都東寺領。領家職は円満院門跡へ伝領される。近世愛知えちしま(現彦根市)一帯に比定する説もあるが、中心を蒲生がもう郡島郷の一部とみるのが有力。平治元年(一一五九)閏五月日の宝荘厳院領庄園注文案(東寺百合文書)に庄名がみえ、上座法眼静憲(藤原通憲信西入道の子)を給主(預所)とし、米三〇〇石・油一石六斗・薦三〇〇枚が納められていた。安貞二年(一二二八)三月後堀河天皇が領家職を延暦寺西塔に寄進したが(天台座主記)幕府の要求により翌寛喜元年(一二二九)西塔の知行は停止され、皇室領に戻されたと思われる(同年七月二二日「後堀河天皇綸旨」華頂要略)。文永九年(一二七二)一月一五日の後嵯峨上皇処分状案(伏見宮記録)によると、一期の間園城おんじよう平等びようどう(円満院)前門主円助法親王に譲与され、のち門跡へ返付するとの記載があり、領家職は円満えんまん院領として伝領されたと思われる。応仁二年(一四六八)足利義視知行の半済分が円満院に返付されている(同年一二月一九日「室町幕府御教書」円満院文書)

一方本家職は元徳二年(一三三〇)一月二八日、宝荘厳院の敷地および執務職が後醍醐天皇から京都東寺に寄進され(「後醍醐天皇綸旨案」東寺百合文書)、康永四年(一三四五)から学衆方の勧学会料などとして宝荘厳院方に管理されるようになった(同年二月日「供僧・学衆等連署置文案」同文書)


三村庄
みむらのしよう

関原郷(現関ヶ原町)伊福貴いぶき(現伊富岐神社、垂井町)穂積ほづみ(現本巣郡穂積町)の三ヵ所からなる久我家領庄園。久我家は領家で、本家は安嘉門院。地域的に散在しており、三村という庄名もこの寄集めという実態を反映しているのかもしれない。安貞三年(一二二九)二月二〇日の円性譲状案(久我家文書)に「みむらの庄」とみえ、円性(平光盛、池大納言頼盛の子)は、尾張真清田ますみだ(現真清田神社、愛知県一宮市)などに加えて当庄などを嫡女安嘉門院宣旨局に譲っている。当庄はもと平頼盛の所領関原郷・穂積郷・伊福貴社の三ヵ所に分れていたが、これらを相伝した光盛は後高倉院に申請し安嘉門院領として寄進・立庄し、領家職の相伝を安堵された(観応元年八月一三日「久我長通譲状写」同文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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