栃尾城(読み)とちおじょう

日本の城がわかる事典 「栃尾城」の解説

とちおじょう【栃尾城】

新潟県長岡市(旧栃尾市)にあった中世の山城(やまじろ)。新潟県指定史跡。戦国時代の越後の武将本庄氏の居城。旧栃尾市街西側の鶴城山(標高227.7m)の山頂に築かれていた城郭である。山頂の本丸と二の丸を中心として、北の尾根に松の丸・三の丸、五島丸、南の尾根に琵琶丸・中の丸などの多くの曲輪(くるわ)を馬蹄形に配置した縄張りを持っていた。松の丸と三の丸の間には、長さ300mにおよぶ大空堀が走り、栃尾城の最大の特徴・見どころとなっている。栃尾城は、永正年間(1504~21年)に古志長尾氏が蔵王堂城から栖吉城に移った際、在地土豪支配のための支城として整備され、本庄実乃が城代として配置された。以降、代々、本庄氏が居城としてきた。1536年(天文5)年8月、長尾為景(上杉謙信の父)は嫡子晴景に家督を譲り、1543年(天文12)に他界した。家督を継いだ晴景は国人領主の反乱を鎮圧できず、春日山城下の林泉寺にいた14歳の弟・虎千代(長尾景虎、のちの謙信)を還俗させて栃尾城に配置した。虎千代はこの城を拠点に、三条城主・長尾俊景らの攻撃を退けたが、この一連の戦いが謙信の初陣だったといわれる。謙信は、この武勇から揚北や越後中郡の諸将の支持を得たが、これに危機感を抱いた兄晴景と対立。晴景は栃尾城の景虎征伐の軍を興したことから両軍の戦いとなり、米山合戦で勝利を収めた景虎は晴景が居城としていた春日山城に迫った。こうした中、調停が行われ、景虎は兄晴景に代わり越後守護代となり、その居城を栃尾城から春日山城に移すことになる。このとき、栃尾城主の本庄実乃も春日山城下に移り、栃尾城には本庄玖介、宇野左馬充が栃尾城代として配備され、栃尾衆が編成されている。1578年(天正6)の謙信死後、その後継をめぐって、上杉景勝・景虎の2人の養子が争った御館の乱では、城主の本庄秀綱は三条城の神余親綱らとともに景虎方に与し、景勝と争ったが、1580年(天正8)4月、景勝方の軍勢の攻撃を受け、秀綱は会津へと落ち延び、そののち栃尾城は落城した。栃尾城が陥落後、景勝は栃尾に上田衆を配備、佐藤甚助忠久を栃尾城主に任じた。1598年(慶長3)の景勝会津移封にともない、越後には堀秀治が入封したが、栃尾城には神子田長門守が入城した。栃尾城は1610年(慶長15)の堀氏改易にともなって廃城となった。現在、城跡には曲輪、堀切、竪堀、土塁、狼煙台、井戸跡などの遺構が残っている。JR信越本線・越後線・上越新幹線長岡駅からバス。旧栃尾市の市街地にある諏訪神社の裏手に登城口がある。◇舞鶴城、大野城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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