新潟県上越市の春日山(旧,高田市域)にあり,上杉謙信の居城として名高い。城の始まりは明らかでないが,元中年間(1384-92),越後守護代長尾高景が鉢ヶ峯(春日山)城にいて府内館の守護上杉房方をたすけた(《長尾系図》)ことなどから,14世紀半ば過ぎには府内館に属する要害として,存在したことがわかる。春日山城が名実ともに越後の鎮城として重きをなすのは,16世紀初頭の下剋上の大乱〈永正の乱〉で守護を倒し越後の覇者となった長尾為景が,春日山城を本拠としてからである。このとき山上の要害を大いに拡張し,山下に常住の根小屋を営み,商業・交通・文化の中心都市府内と緊密に結ばれた軍営都市が形成されたと思われる。為景の遺業を継いだ景虎(上杉謙信)は,四隣に雄飛して武田・後北条・織田諸氏と対決する間に居城の増強を重ね,永禄年間(1558-70)要塞を完成した。謙信没後の御館(おたて)の乱に際し,上杉景勝は春日山に籠城して,反対勢力の猛攻をくじいて優位に立ち,ついに勝利を得た。1598年(慶長3)景勝が会津に国替えとなり,代わって越後へ入部した堀秀治は春日山城を居城とし,この時期に春日山城は全体にわたり大改修を施され面目を一新したが,今日,東麓の田園中に曲折して延々1.5kmにわたり断続する巨大な塁壕跡は,この時期新営の総構えである。堀忠俊は荒川河口に完成した福島城を居城としたので,春日山城は廃城となった。
春日山城の規模は壮大で,山上の要害区,山懐の愛宕谷の根小屋区,春日町前面の総構えからなり全体にわたり遺構がよく残っている。けわしい山頂部には本丸,二の段,景勝屋敷,お花畑などの主郭群があり,四方にひろがる尾根や山腹には,大小のおびただしい曲輪(くるわ)が散在し,要所に櫓,門,井戸,土塁,堀切,畝形阻塞などの跡がある。根小屋区には城主邸跡〈御屋敷〉をはじめ大形の曲輪が階段状に並び威観を呈する。
執筆者:伊藤 正一
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戦国期から江戸初期の城。新潟県上越(じょうえつ)市中屋敷(なかやしき)春日山にある標高180メートルの春日山に築かれた山城(やまじろ)。越後(えちご)の戦国大名上杉謙信(うえすぎけんしん)の本城として名高い。別称、鉢ヶ峯城。城は長禄(ちょうろく)年間(1457~60)ごろ、越後守護代(しゅごだい)長尾為景(ながおためかげ)によって築かれたという。山頂を本丸とし、大小200か所以上の曲輪(くるわ)からなり、空堀、土塁がよく残っている。為景の子景虎(かげとら)(上杉謙信)のときが最盛期で、謙信は前後29年、この城を本拠として各地を転戦して回った。現在みられる縄張りのほとんどは、この時期のものである。謙信死後、養子の景勝が相続したが、1598年(慶長3)会津へ移封され、かわって堀秀治(ひではる)が城主になったが、1607年秀治の子忠俊(ただとし)のとき、福島城に移り廃城になった。
[小和田哲男]
新潟県上越市にあった山城。戦国大名上杉謙信の本拠として知られる。起源は南北朝期ともいうが不詳。1513年(永正10)の越後国守護上杉定実と守護代長尾為景の抗争時にはじめてみえる。当初,越後府中の要害として守護代長尾氏の管轄下にあったが,守護代権限の上昇にともない政治的機能が備えられた。上杉謙信・同景勝・堀秀治の時代を通じて拡張・整備され,98年(慶長3)監物堀の外郭線も普請された。1607年(慶長12)堀忠俊が直江津の福島城に移り廃城。実城(みじょう)を中心とした堀切や土塁が普請される要害と,根小屋などの空間からなり,近隣には支砦もある。城跡は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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