三河島村(読み)みかわしまむら

日本歴史地名大系 「三河島村」の解説

三河島村
みかわしまむら

[現在地名]荒川区荒川一―八丁目・町屋まちや一丁目・同三丁目・同八丁目・東尾久ひがしおぐ一―二丁目・東日暮里ひがしにつぽり一―三丁目・同六丁目・西日暮里にしにつぽり一丁目・同六丁目

三之輪みのわ村・小塚原こつかつぱら町の西、荒川(現隅田川)西岸低地にある。南は金杉かなすぎ(現台東区)北東は荒川を隔て足立郡千住河原せんじゆかわら(現足立区)。地名の由来には四説あり、往古中川・古利根ふるとね川・荒川の三筋の川に囲まれた中洲にあった故とする説(武蔵演路・三河島町郷土史)、天正一八年(一五九〇)徳川家康関東入部に際し三河国の旧地を捨てて同行した竹束役が与えられた知行地に由来するとの説(紫の一本・江戸惣鹿子名所大全)、長禄年間(一四五七―六〇)に太田道灌と親交があった木戸三河守(源孝範)の館があった故とする説(江戸名所図会・遊歴雑記)、小田原北条氏家臣の細谷三河守の知行地に由来するとの説である(風土記稿)。北条氏所領役帳には「三川ケ嶋」一七貫五〇〇文が江戸衆細谷三河守、「三川ケ嶋六所分」一七貫五〇〇文が同衆蔭山大膳亮のそれぞれの所領としてみえる。

田園簿に三河島村とあり、田五六九石余・畑二一〇石余、幕府領。寛延三年(一七五〇)検地帳(松本家文書)では高九四〇石余、反別は田六三町五反余・畑屋敷六二町六反余。この間当村内の地は数次にわたり東叡山寛永寺に寄進された。天和元年(一六八一)に寄進された高五〇〇石・田畑屋敷六八町七反余はもと領と称され、代々松本市郎兵衛が名主を勤めた。その後元禄一一年(一六九八)に四三石余、同一五年に三三六石余が寄進され、それぞれしん領、きた組と称して入山勘左衛門・清水喜兵衛が名主を勤めたという(「東叡山領定納証文」新修荒川区史など)。元領は当村西部にあり観音寺(現荒川四丁目)前の現明治通より南で、地蔵じぞう堀近辺から東の一帯、新領は観音寺の北で花ノ木はなのき付近、北組は現在の下水道局三河島処理場付近を含む三河島北部に比定されるという(荒川の民俗)

三河島村
みかわじまむら

[現在地名]浜松市老間町おいまちよう

鶴見つるみ輪中の南西縁に位置し、北は東金折ひがしかなおり村。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に河東高合二千七〇九石余の記載のあとに河東老間三河島として三千三石余とある。両者の差二九四石余が老間村と当村の分に相当すると考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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