江戸後期の浮世絵師。江戸・八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)同心、安藤源右衛門(げんえもん)の長男として生まれた。幼名を徳太郎、俗称を重右衛門(または十右衛門)、のち徳兵衛といい、後年には鉄蔵と改めた。1809年(文化6)13歳のときに相次いで両親を失い、若くして火消同心の職を継ぐことになったが、元来の絵好きから家職を好まず、1823年(文政6)には祖父十右衛門の実子、仲次郎にこの職を譲り、浮世絵に専心している。浮世絵界に入ったのは、両親を失ったわずか2年後の15歳のときで、当時役者絵や美人画で一世を風靡(ふうび)した初世歌川豊国(とよくに)に入門を望んだが、すでに大ぜいの門人を擁していたので許されず、貸本屋某の紹介で、豊国とは同門の歌川豊広の門人となった。その翌年の1812年(文化9)には早くも豊広から歌川広重の号を許されている。処女作といわれる作品は、画名を許された翌年の版行になるといわれる『鳥兜(とりかぶと)の図』の摺物(すりもの)とされるが確証はなく、これより5年遅れる1818年(文政1)に版行された錦絵(にしきえ)『中村芝翫(しかん)の平清盛(きよもり)と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)』『中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売』の2図が年代の確実なものとされている。その後、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)は美人画、武者絵、おもちゃ絵、役者絵や挿絵など幅広い作画活動を展開したが振るわなかった。
しかし天保(てんぽう)年間(1830~1844)にはその活躍は目覚ましく、天保元年には従来から用いていた一遊斎(いちゆうさい)の号を改めて一幽斎(いちゆうさい)とし、天保2年ごろには初期の風景画の名作として知られる『東都名所』(全10枚。俗に『一幽斎がき東都名所』とよばれる)を発表。さらに天保3年2月ごろには一立斎(いちりゅうさい)とふたたび改め、秋には幕府八朔(はっさく)の御馬(おうま)献上行列に加わって、東海道を京都に上った。年内には江戸へ帰り、天保4年から、このおりに実見した東海道の宿場風景を描いた保永堂版『東海道五拾三次』(全55枚)を版行し始めている。このシリーズは天保5年中には完結したとみられるが、これにより広重は、一躍風景画家としての地位を確立したのであった。このころから天保末年にかけてが広重の芸術的絶頂期とみられ、『近江(おうみ)八景』(全8枚)、『江戸近郊八景』(全8枚)、『木曽海道(きそかいどう)六拾九次』(全70枚。渓斎英泉とともに描き、広重は46図を描いた)などのシリーズを矢つぎばやに発表していった。
弘化(こうか)年間(1844~1848)以降は多少乱作気味であったが、この時期にも、優品とされる風景版画が何種か知られている。そのなかでも1842年(天保13)の刊行になる縦二枚続の『甲陽猿橋之図(こうようえんきょうのず)』や『富士川雪景』、また1856年(安政3)から没年(1858)まで版行され続けた広重最大数量の揃物(そろいもの)『名所江戸百景』(全118枚)、1857年に雪月花の3部に分けて描かれたという三枚続の『木曽路の山川(さんせん)』『武陽金沢八勝(ぶようかなざわはっしょう)夜景』『阿波鳴門(あわなると)之風景』などは広重晩年の代表作として名高い。風景画以外では、短冊形の花鳥画に『月に雁(かり)』『雪中のおしどり』などの優品が多く、また大錦(おおにしき)判の魚貝画にも佳作がみいだされる。肉筆画は意外に早い時期から描いており、初期には美人画が多く、嘉永(かえい)年間(1848~1854)にもっとも傾注して描いた天童藩(山形県)の依頼による天童広重とよばれる風景画には、金泥(きんでい)などを用いた豪華なものがある。安政(あんせい)5年9月6日没。
[永田生慈]
『鈴木重三著『広重』(1970・日本経済新聞社)』▽『山口圭三郎編『浮世絵大系11 広重』(1974・集英社)』
江戸後期の浮世絵師。姓は安藤氏,幼名徳太郎,のち重右衛門。江戸八代洲(やよす)河岸の定火消同心の子として生まれ,13歳のとき両親を失い,家職を継いだ。生来絵が上手であったが,1811年(文化8)歌川豊広に入門,翌年より歌川広重と名のり,18年(文政1)ころ画壇へも登場。英泉風を採り入れた美人画や役者絵など意欲的に取り組んでいる。さらに23年には鉄蔵と改名,家督を嫡子に渡し,画家として立つ決意を固め,絵本類や風景画をも手がけるようになる。そして31年(天保2)ころ,一幽斎の落款をもつ初期の傑作《東都名所》を世に送り,清新な色彩感覚を示すとともに風景画家としての本格的スタートを切った。32年には幕府の八朔御料馬献上の行列に随行して京都へのぼり,帰府後,一立斎の落款をもつ代表作《東海道五十三次》の続絵を発表。抒情的で親しみやすい画風が人気を集め,風景画家として浮世絵界に確固とした位置を占めるに至った。以後《近江八景》《木曾街道六十九次》など多くの名所絵・風景画の佳品を制作する。一方,花鳥画にもすぐれた資質を見せている。この34年から40年までが彼の絶頂期で,広重芸術の完成期でもある。なお,広重は若年のころ,火消同心の岡島林斎から狩野派を学び,また南宋画や四条派も何らかの形で習得したと伝えられている。天保改革のころは一時歴史画が中心となるが,その後弘化・嘉永期(1844-54)には,背景の風景と人物に同等の比重を置いた美人画や,洒脱な戯画,絵本類も描いた。このころより乱作の影響もあって,マンネリ化・類型化が目立ち,また顔料の質的低下も手伝って通俗的傾向が著しくなる。しかし,最晩年の56-58年(安政3-5)にかけて,118枚に及ぶ広重作品中の最大のシリーズ《名所江戸百景》を発表,老成した手腕を発揮した。広重は,やまと絵における四季絵・名所絵の伝統を江戸末期に復活し,田舎や都会の自然の風情を抒情的に表現することによって日本的風景画の一様式を完成した。またその絵はゴッホなどヨーロッパの画家にも影響を与え,国際的評価を得ている。弟子には,重宣(2代広重),重房,重政(3代広重)などがいる。2代広重(1826-69)は,初代広重の養女お辰の婿となる。〈横浜絵〉に腕をふるい,また風景画・美人風俗画にも優品があるが,初世に比べ,ほとんど評価されていない。のちお辰と離縁し安藤家を出て,喜斎立祥と名のった。
執筆者:松木 寛
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(大久保純一)
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1797~1858.9.6
江戸後期の浮世絵師。安藤氏。幼名は徳太郎,のち重右衛門・徳兵衛。一遊斎・一幽斎・一立斎・立斎・歌重とも号した。歌川豊広の門人。江戸八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうひけし)屋敷の同心の家に生まれ,1809年(文化6)家督を継ぐ。18年(文政元)から版本や役者絵などを描き始め,やがて美人画や合巻(ごうかん)も手がける。31年(天保2)頃から「東都名所」など風景画を描くようになり,33年頃から刊行された「東海道五十三次」続絵で人気を得て,以後「木曾海道六十九次」「名所江戸百景」など多くの風景画を残す。花鳥画の優品も描いている。
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…風景画は,歌川派全盛の時流に英泉とともに抵抗した葛飾北斎が,洋風表現を積極的に取り入れてその端緒をひらき,1831‐33年(天保2‐4)ころに発表した《富嶽三十六景》の成功によって定着させた。33年には後を追うように歌川(安藤)広重が《東海道五十三次》を出し,これ以後しばらく両者の風景画競作時代がつづく。両者の作風は対照的で,北斎の造形的配慮を優先させた厳しい景観と異なり,広重の風景画は現実の自然に近く,詩的な情趣が横溢して親しみやすい。…
…この間草津から京都までは東海道と重なるため,草津までで69駅となる。この街道を主題とした浮世絵版画《木曾街道六十九次》は1835年(天保6)から渓斎英泉によって始められ,38年前後に歌川広重が参加,42年ころ完成された。このシリーズは保永堂と錦樹堂の合板によるもので,英泉が24図,広重が46図を手がけ計70枚の大作であったが不評に終わった。…
…これを一宿一図として描いたのは葛飾北斎が始めで,1804年(文化1)版の《東海道》以下4作品がある。しかしそれらは道中風俗図で人物本位となっており,風景版画として本格的にこれに取り組んだのは歌川(安藤)広重である。彼の作品中いちばん初めに制作された1833‐34年(天保4‐5)の《東海道五拾三次之内》が最も有名かつ優秀な作品といえる。…
※「歌川広重」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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