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歌川広重 うたがわひろしげ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

歌川広重
うたがわひろしげ

[生]寛政9(1797).江戸
[没]安政5(1858).9.6. 江戸
江戸時代末期の浮世絵師。幼名は徳太郎のち重右衛門。文化6 (1809) 年両親を失い,家職の八代洲河岸 (やよすがし) 火消し同心を継いだが,画家を志し同8年歌川豊広に師事,翌年歌川広重と称した。

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デジタル大辞泉の解説

うたがわ‐ひろしげ〔うたがは‐〕【歌川広重】

[1797~1858]江戸後期の浮世絵師。江戸の人。本姓、安藤。歌川豊広に師事。広重の名を与えられ、一遊斎・一幽斎などと号した。叙情性と親しみやすさに富んだ風景画にすぐれ、代表作の「東海道五十三次」をはじめ、諸国風景や江戸名所を多数描いた。

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百科事典マイペディアの解説

歌川広重【うたがわひろしげ】

浮世絵師。江戸八代洲河岸の火消同心の子として生まれる。姓は安藤氏。画号は一遊斎,一立斎など。歌川豊広に学ぶ。狩野派南画円山四条派円山派四条派)などにも学び,西洋画風をも取り入れた幅広い画風を形成。
→関連項目浮世絵歌川派近江八景(美術)渓斎英泉摺物

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江戸・東京人物辞典の解説

歌川広重

1797〜1858(寛政9年〜安政5年)【浮世絵師】風景画の傑作『東海道五十三次』を残した、北斎のライバル浮世絵師。 安藤広重とも。浮世絵師。父は幕府定火消同心。江戸出身。歌川豊広に入門し美人画や役者絵を描いた。1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めた。『木曾街道六十九次』『名所江戸百景』など、当時北斎と庶民の人気を二分した。

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世界大百科事典 第2版の解説

うたがわひろしげ【歌川広重】

1797‐1858(寛政9‐安政5)
江戸後期の浮世絵師。姓は安藤氏,幼名徳太郎,のち重右衛門。江戸八代洲(やよす)河岸の定火消同心の子として生まれ,13歳のとき両親を失い,家職を継いだ。生来絵が上手であったが,1811年(文化8)歌川豊広に入門,翌年より歌川広重と名のり,18年(文政1)ころ画壇へも登場。英泉風を採り入れた美人画や役者絵など意欲的に取り組んでいる。さらに23年には鉄蔵と改名,家督を嫡子に渡し,画家として立つ決意を固め,絵本類や風景画をも手がけるようになる。

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大辞林 第三版の解説

うたがわひろしげ【歌川広重】

1797~1858) 江戸後期の浮世絵師。号、一立斎。江戸の人。歌川豊広(?~1829)に師事。美人画や役者絵を描いたが、のち、洋画の遠近透視法を応用した斬新な風景版画に新生面を開き、「東海道五十三次」「名所江戸百景」などの名作を発表。安藤広重。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

歌川広重
うたがわひろしげ
(1797―1858)

江戸後期の浮世絵師。江戸・八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)同心、安藤源右衛門(げんえもん)の長男として生まれた。幼名を徳太郎、俗称を重右衛門(または十右衛門)、のち徳兵衛といい、後年には鉄蔵と改めた。1809年(文化6)13歳のときに相次いで両親を失い、若くして火消同心の職を継ぐことになったが、元来の絵好きから家職を好まず、1823年(文政6)には祖父十右衛門の実子、仲次郎にこの職を譲り、浮世絵に専心している。浮世絵界に入ったのは、両親を失ったわずか2年後の15歳のときで、当時役者絵や美人画で一世を風靡(ふうび)した初世歌川豊国(とよくに)に入門を望んだが、すでに大ぜいの門人を擁していたので許されず、貸本屋某の紹介で、豊国とは同門の歌川豊広の門人となった。その翌年の1812年(文化9)には早くも豊広から歌川広重の号を許されている。処女作といわれる作品は、画名を許された翌年の版行になるといわれる『鳥兜(とりかぶと)の図』の摺物(すりもの)とされるが確証はなく、これより5年遅れる1818年(文政1)に版行された錦絵(にしきえ)『中村芝翫(しかん)の平清盛(きよもり)と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)』『中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売』の2図が年代の確実なものとされている。その後、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)は美人画、武者絵、おもちゃ絵、役者絵や挿絵など幅広い作画活動を展開したが振るわなかった。
 しかし天保(てんぽう)年間(1830~1844)にはその活躍は目覚ましく、天保元年には従来から用いていた一遊斎(いちゆうさい)の号を改めて一幽斎(いちゆうさい)とし、天保2年ごろには初期の風景画の名作として知られる『東都名所』(全10枚。俗に『一幽斎がき東都名所』とよばれる)を発表。さらに天保3年2月ごろには一立斎(いちりゅうさい)とふたたび改め、秋には幕府八朔(はっさく)の御馬(おうま)献上行列に加わって、東海道を京都に上った。年内には江戸へ帰り、天保4年から、このおりに実見した東海道の宿場風景を描いた保永堂版『東海道五拾三次』(全55枚)を版行し始めている。このシリーズは天保5年中には完結したとみられるが、これにより広重は、一躍風景画家としての地位を確立したのであった。このころから天保末年にかけてが広重の芸術的絶頂期とみられ、『近江(おうみ)八景』(全8枚)、『江戸近郊八景』(全8枚)、『木曽海道(きそかいどう)六拾九次』(全70枚。渓斎英泉とともに描き、広重は46図を描いた)などのシリーズを矢つぎばやに発表していった。
 弘化(こうか)年間(1844~1848)以降は多少乱作気味であったが、この時期にも、優品とされる風景版画が何種か知られている。そのなかでも1842年(天保13)の刊行になる縦二枚続の『甲陽猿橋之図(こうようえんきょうのず)』や『富士川雪景』、また1856年(安政3)から没年(1858)まで版行され続けた広重最大数量の揃物(そろいもの)『名所江戸百景』(全118枚)、1857年に雪月花の3部に分けて描かれたという三枚続の『木曽路の山川(さんせん)』『武陽金沢八勝(ぶようかなざわはっしょう)夜景』『阿波鳴門(あわなると)之風景』などは広重晩年の代表作として名高い。風景画以外では、短冊形の花鳥画に『月に雁(かり)』『雪中のおしどり』などの優品が多く、また大錦(おおにしき)判の魚貝画にも佳作がみいだされる。肉筆画は意外に早い時期から描いており、初期には美人画が多く、嘉永(かえい)年間(1848~1854)にもっとも傾注して描いた天童藩(山形県)の依頼による天童広重とよばれる風景画には、金泥(きんでい)などを用いた豪華なものがある。安政(あんせい)5年9月6日没。[永田生慈]
『鈴木重三著『広重』(1970・日本経済新聞社) ▽山口圭三郎編『浮世絵大系11 広重』(1974・集英社)』

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世界大百科事典内の歌川広重の言及

【浮世絵】より

…風景画は,歌川派全盛の時流に英泉とともに抵抗した葛飾北斎が,洋風表現を積極的に取り入れてその端緒をひらき,1831‐33年(天保2‐4)ころに発表した《富嶽三十六景》の成功によって定着させた。33年には後を追うように歌川(安藤)広重が《東海道五十三次》を出し,これ以後しばらく両者の風景画競作時代がつづく。両者の作風は対照的で,北斎の造形的配慮を優先させた厳しい景観と異なり,広重の風景画は現実の自然に近く,詩的な情趣が横溢して親しみやすい。…

【木曾街道六十九次】より

…この間草津から京都までは東海道と重なるため,草津までで69駅となる。この街道を主題とした浮世絵版画《木曾街道六十九次》は1835年(天保6)から渓斎英泉によって始められ,38年前後に歌川広重が参加,42年ころ完成された。このシリーズは保永堂と錦樹堂の合板によるもので,英泉が24図,広重が46図を手がけ計70枚の大作であったが不評に終わった。…

【東海道五十三次】より

…これを一宿一図として描いたのは葛飾北斎が始めで,1804年(文化1)版の《東海道》以下4作品がある。しかしそれらは道中風俗図で人物本位となっており,風景版画として本格的にこれに取り組んだのは歌川(安藤)広重である。彼の作品中いちばん初めに制作された1833‐34年(天保4‐5)の《東海道五拾三次之内》が最も有名かつ優秀な作品といえる。…

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