三津屋村
みつやむら
[現在地名]淀川区三津屋〈北一―三丁目・中一―三丁目・南一―三丁目〉・田川二―三丁目・田川北一―三丁目・十三元今里三丁目・新高六丁目など
加島村の東にある。北は神崎川を隔てて豊島郡洲到止村(現豊中市)。南部村界付近に住吉社(現住吉区)の社家田川権太夫が開発したと伝える田川集落がある。三屋(元和初年の摂津一国高御改帳など)とも書かれたが、古くは「三社」であったらしく「摂陽群談」は「此所は始に三社と書り、当郷三社の氏神あるに因れり」と記す。一説には当地開発者が三社浅右衛門なる人であったからという(西成郡史)。
三津屋村
みつやむら
[現在地名]彦根市三津屋町
須越村の南西、宇曾川を挟んだ琵琶湖岸に位置。背後に荒神山がそびえ、その麓に曾根沼がある。奈良時代、犬上郡と愛知郡にまたがって奈良東大寺領覇流村があったが、その条里坪付を復元された犬上郡・愛知郡条里に付合せると、同村は曾根沼に比定されるという(→覇流村・覇流庄)。天正一九年(一五九一)四月「ミつや村」の小成物「壱石六斗四升二合 ゑり米」は、豊臣秀吉の直轄領として代官石田三成の管理下に置かれた(「御蔵入目録」林文書)。
三津屋村
みつやむら
[現在地名]八日市市三津屋町
西古保志塚村の西にある。村名は三屋とも記され、三ッ屋すなわち三戸の草分百姓による開拓集落にちなむとされる。永正一四年(一五一七)一〇月一七日の勧進猿楽日記(今堀日吉神社文書)に三屋とみえ、太刀二振を今堀勧進猿楽に奉納している。翌一五年一一月一日の山越年貢銭算用状(同文書)では、九八〇文が三屋から保内惣庄へ納められており、この時期三屋の商人は、伊勢への山越通商に限り保内商人に編成されていたことになる。戦国期のものと推定される馬足子交名(同文書)には三屋の平内らの名がみえている。
三津屋村
みつやむら
[現在地名]東予市三津屋
周桑平野の新川河口の右岸に位置する。南は北条村、北は壬生川村に接し、東は燧灘に面する。三津は港を意味し、村の東北部が船着場になっていた。「伊予温故録」に三津屋港として「三津屋村の艮位四町に在る、港口艮位に向ひ干潮深さ二尺小船出入す」とある。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「三津屋村 水損所、小川有」とみえ、村高七九三石三斗六升四合、うち田方七六五石四斗六升八合、畠方二七石八斗九升六合とある。
三津屋村
みつやむら
[現在地名]長浜市三ッ矢町・三ッ矢元町
長浜町の北に接し、西は列見村。三ッ矢・三屋とも記される。寛永石高帳に高五二一石余とあり、彦根藩領。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で五ツ五分。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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