日本歴史地名大系 「東予市」の解説 東予市とうよし 面積:七四・〇五平方キロ市域は燧(ひうち)灘に面する道前平野の北西部(周桑平野)を占め、西部は東三方(ひがしさんぽう)ヶ森(もり)(一二三二・七メートル)の東斜面をなす山地である。域内を流れる北(きた)川・大明神(だいみようじん)川・新(しん)川・中山(なかやま)川などはいずれも西部山地から発して、ほぼ平行に西南から東北への流路をとって燧灘に注いでいる。とくに運搬・堆積作用の顕著な大明神川は山麓に国安(くにやす)扇状地を形成し、下流では河床の高い天井川をなしている。国鉄予讃本線が海岸線に平行して南北に通じているが、大明神川の地点では河床を六四メートルのトンネルで抜ける。燧灘は昔は遠浅海岸であったが、今では河原津(かわらづ)・高田(たかた)・壬生川(にゆうがわ)・三津屋(みつや)・北条(ほうじよう)・広江(ひろえ)の地先に干拓や埋立による新田開発・土地造成が行われ、工場の建設や築港などで人工的海岸に変わっている。市域は旧桑村(くわむら)郡の大部と旧周布(しゆうふ)郡の一部を含むが、「和名抄」の郷名の桑村郡の御井(みい)・津宮(つのみや)、周敷(すふ)郡の吉田(よしだ)・井出(いで)・神戸(かんべ)があったと思われる。〔原始・古代〕昭和二七年(一九五二)頃大字周布(しゆふ)を貫流する崩口(くえくち)川の改修工事で、流域の地下約〇・六―一・〇メートルの粘土層から弥生式土器破片一九三個、帯釉陶器五個、土師器二〇個、須恵器破片四〇個、杭・敷石など二〇〇余点、桃の種子一五個が発見された(周布村誌)。また今治(いまばり)市に近い東予市北端の永納(えいのう)山(一三三メートル)を中心に長さ数百メートルに及ぶ列石が昭和五二年に発見され、七世紀頃に築造された山城跡と推定されている。条里制の遺構は国府所在地であった今治平野からこの平野に延びている。それに関係あるらしい小字名に尼(あま)ヶ坪(つぼ)・久(く)ヶ坪(つぼ)・二十(にじゆう)(旧楠河(くすかわ)村)、久ヶ坪(旧三芳(みよし)村)、市(いち)ヶ坪(つぼ)・石(いし)ヶ坪(つぼ)(旧壬生川町)、大坪(おおつぼ)・大道下(だいどうした)・丈尺(じようしき)(旧周布村)、一(いち)ヶ坪(つぼ)・北大坪(きたおおつぼ)・南の坪(みなみのつぼ)・大坪(おおつぼ)(旧吉井村)などがある。古代伊予国には駅制による小路が東の讃岐国から伊予国府に結ばれていた。伊予六駅のうち周敷駅は東の新居(にい)駅から北の越智(おち)駅を連ねるもので、駅家は周布の字本郷(ほんごう)辺りと推定される。ここには式内社の周敷神社もあり、おそらくは郡衙もあって周敷郡の中心をなしていたと思われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by