日本歴史地名大系 「三瀬村」の解説 三瀬村さんぜむら 山形県:鶴岡市日本海沿岸地区三瀬村[現在地名]鶴岡市三瀬八森(はちもり)山の北麓、海岸丘陵に源を発する降矢川(現三瀬川)・水無(みずなし)川・西(にし)川が合流して海に注ぐ三瀬川流域にある。北東は由良(ゆら)村。地名の由来は、右の三川の合流点に位置することによるとされる(郷土豊浦)。「義経記」によれば、陸奥平泉へ向かう源義経一行は「田川郡三世の薬師堂」に着き、大雨による増水のため逗留。同所から田川太郎実房の招きにより田川(たがわ)へ赴いている。この薬師堂を「出羽国風土略記」は北部葉山(はやま)の葉山薬師のこととするが、ほかに諸説ある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一千五七六石余。ほかに気比(きひ)山領三五石がある(元和八年庄内寺社領目録)。寛永元年庄内高辻帳では高一千五四一石余、寛永三年庄内高辻帳では高一千五二〇石余。正保郷帳では田高一千五〇一石余・畑高四一石余、社領三五石余、松杉山があり、水損。 三瀬村みつせむら 佐賀県:神埼郡三瀬村面積:四〇・七四平方キロ神埼郡の最北端に位置し、北は三瀬峠・金(かな)山・小爪(こづめ)峠・鬼(おに)ヶ鼻(はな)・椎原(しいばる)峠を結ぶ背振(せふり)山地の尾根が福岡県との県境をなしている。東は一谷(いちこく)峠・頭野(かしらの)山を結ぶ山塊の尾根を境にして脊振(せふり)村に接し、南は頭野山・大内(おおうち)峠・苔谷(こけたに)山を結ぶ線で脊振村、ならびに苔谷山・向合観音(むきあいかんのん)峠を結ぶ線で佐賀郡大和(やまと)町に接する。西は三瀬峠から鈴鹿(すずか)谷・初瀬(はつせ)川・北山(ほくざん)ダム・茶屋(ちやや)峠を結ぶ線を境にして佐賀郡富士町に隣接する。 三瀬村みつせむら 愛知県:北設楽郡東栄町三瀬村[現在地名]東栄町本郷(ほんごう)奈根(なね)川の上流部に位置し、下流は奈根村。宝暦七年(一七五七)の乍恐書付を以奉願上候(設楽)によると、「当村枝郷上小田、字左衛門、次左衛門両人に申分御座候と申、佐左衛門と申木地屋、一家不残拾弐人」とあり、上小田(かみおだ)が枝郷であるとともに、三瀬に木地師が居住していたことが知られる。木地師の居住地は村域西方の標高一〇一六メートルの明神(みようじん)山の老栃(おいとち)辺りとされている。奈根村の長峯(ながみね)神社は当村の氏神でもある。 三瀬村みつせむら 群馬県:甘楽郡下仁田町三瀬村[現在地名]下仁田町南野牧(みなみのまき)市(いち)ノ萱(かや)川沿いに位置し、同川沿いを下仁田道が通る。東は芦野平(あしのたいら)村、西は市野萱村と接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には元禄郷帳で枝村とする竹入(たけのいり)村とともにみえ、両村の合計高四八石八斗余はすべて畑方。後期の御改革組合村高帳では高一六三石余、家数三二。天明五年(一七八五)の市野萱村米市新立てについての本宿(もとじゆく)村との相論では、市野萱村に荷担している(「米市紛争返答書」勅使河原文書など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by