湊浦(読み)みなとうら

日本歴史地名大系 「湊浦」の解説

湊浦
みなとうら

[現在地名]西淡町湊

西淡町の北部、三原川河口左岸に位置し、西は播磨灘に面する。もと南接する湊里みなとさと村と合せて湊村と称し、その浦分にあたる。湊里村から北流するかき木谷きだに川が東部を横断し三原川に合流する。三原川を隔てて北は古津路こつろ村。川幅約六〇メートルの叶堂かのど渡を渡り古津路村・櫟田いちだ村から洲本へ至る道と叶堂渡場付近から西路にしじ浦・たたら村を経て八幡やはた(現南淡町)福良ふくら街道に合流する道がある。古代・中世、山陽道や西海道方面への海路の国府津であったと考えられ、三原湊または単に三原ともよばれた。平安時代淡路国守となり任国に下った橘為仲は、「みはらのみなとといふところにて月あかきに」という詞書とともに、「宮こにてみしにおとらぬ月なれやもしほの煙立まかふとも」と詠んでおり(橘為仲朝臣集)、当時から製塩が行われていたことを示している。


湊浦
みなとうら

[現在地名]三隅町湊浦

三隅川が日本海に注ぐ河口の東、田の浦たのうら海岸近くに位置する湊町。約三キロ北方に鹿島という無人島がある。江戸時代初期は西河内さいごうち村に含まれていたが、正保四年(一六四七)の古田領郷帳では同村から分れ、三隅湊として高一四石余。同高のうち「代官屋しき申より七畝歩永ニ引」として五斗六升、「代官屋しき廻り道代ニ酉より永引」として八升五合の記載がある。天保郷帳では西河内村枝郷と注記して湊とみえ、高二一石余。寛政元年(一七八九)の巡見使案内懐中記(福原家文書)には湊のうちたか(現益田市)とあり、日本海上の高島も湊浦の支配下にあった。


湊浦
みなとうら

[現在地名]富津市湊

浦賀水道に置かれた湊で、湊川河口部にある。年貢米などの津出湊で上総湊と称されるが、史料上は湊浦のほか湊村浦などとみえる。元禄三年(一六九〇)の幕府廻米津出浦々河岸之道法并運賃書付(徳川禁令考)金谷かなや浦・湊浦とあり、海上一五里の江戸まで運賃は米一〇〇石につき一石三斗であった。年貢米の津出しとして利用したのは文化八年(一八一一)当時の相野谷あいのやつ(高橋家文書)売津うるつ(椙山家文書)、慶応元年(一八六五)岩坂いわさか村・志駒しこま(山岡家文書)などが知られる。


湊浦
みなとうら

[現在地名]市来町湊町

吹上ふきあげ浜砂丘の北部、湊村の西部の大里おおざと川や八房やふさ川が海に注ぐ河口一帯に位置する。中世には市来湊として船舶出入りし、朝鮮・中国との交易も行われていた。文化三年(一八〇六)改の諸浦御奉公並万上納物定(列朝制度)によると、浦人数三二一人、浦水手役四〇人立・雇水手役三八人立で、魚運上銀と漁師銀は唐仁とうじん町・湊町との合計であった。製塩も行われ、安政七年(一八六〇)の万留(県立図書館蔵)によれば、同地の塩浜高二斗九升余が砂の流失により製塩不可能となっていた。江戸時代後期、八房川の河口に面した所に津口番所(通称川口番所)が設置されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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