上小松村(読み)かみこまつむら

日本歴史地名大系 「上小松村」の解説

上小松村
かみこまつむら

[現在地名]川西町上小松

いぬ川の谷口部に位置し、北東は中小松村、南は奥田おくだ村、西は朴沢ほおのさわ村。鎌倉時代末期から南北朝期の浄土真宗の僧存覚の「袖日記」に長井門徒中として「小松信仏」とある。延徳元年(一四八九)四月二九日の大円だいえん寺棟札に「小松先達 正覚坊」とある。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「下長井白川より南」のうちに「七十五貫五百十文 上小松」とあり、同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、守護不入の地として「下長井庄小松之郷」などが牧野弾正左衛門に、「下長井こ松之内、せんしやう寺分のこさす」が正光しようこう寺に、「下長いこ松の内、平十郎在け」が山路三郎右衛門に、「こ松の内に一けん」が片倉式部に与えられている。

上小松村
かみこまつむら

[現在地名]葛飾区東新小岩ひがししんこいわ一―四丁目・同六丁目・奥戸おくど四丁目

奥戸村の南に位置し、南は下小松村、西は上平井かみひらい村。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「小松 廿八丁一反半 西東公田二丁三反」とみえ、葛西かさい御厨の内であった。年月日未詳の葛西御厨田数注文写(同書)には、「小松 三十町三段半」と記される。北条氏所領役帳には遠山丹波守綱景の所領として葛西「小松上下」七〇貫九五二文がみえ、戦国期の段階ですでに上小松と下小松に分れていた。

上小松村
かみこまつむら

[現在地名]遊佐町小松こまつ

水上みずかみ村の北東にあり、西は下小松村。佐渡さどには奈良―平安時代の、舞田まいでん長田ながた塚田つかだには奈良―室町時代の集落跡がある。当村の地名は「延喜式」にある遊佐駅の駒処に由来するとされる(大日本地名辞書)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高七七石余。寛永元年庄内高辻帳では高三〇六石余。享和三年(一八〇三)には家数二九・人数一四九(「村数家数人高控帳」斎藤文書)庄内要覧によれば免五ツ七分七厘、家数二一。酒田の商人地主本間家の小作田があり、寛政八年(一七九六)の代家は五右衛門であった(「替地証文」本間文書)

上小松村
かみこまつむら

[現在地名]小松市上小松町・白松町しらまつまち御宮町おみやまち

かけはし川下流左岸の平坦地にあり、しばしば洪水の被害を受けた。東は白江しらえ村、南から西はその村。「かごまつ」ともよぶ。寛永一六年(一六三九)前田利常が隠居するにあたり、小松城を拡張し、それまでなかった二の丸・三の丸を構築した。当村は二の丸の地にいた人々が移転してできた村で、小松より川上にあたるので村名としたといわれる。正保郷帳では高六二五石余、田方三四町五反余・畑方二町二反余。

上小松村
かみこまつむら

[現在地名]会津本郷町氷玉ひだま

下野街道に沿い、関山せきやま村とは田畑・住居とも交雑して一村のようであった。もと八重松やえまつ村の端村であったが、正保三年(一六四六)分村して独立村となる(新編会津風土記)。「会津風土記」に上小松とある。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高二一一石余。化政期の家数二〇(新編会津風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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