上小田村(読み)かみおだむら

日本歴史地名大系 「上小田村」の解説

上小田村
かみおだむら

[現在地名]八鹿町上小田

八鹿村の北西、円山まるやま川中流域左岸にあり、北は下小田村。円山川の対岸東方に離れて位置する大江おおえ村の住人が開いた村とされ、同村からの分村と伝える。鎌倉時代、国衙領大恵おおえ保内の一村であった小田村は当地付近に比定される。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文に記される大恵保のうちに「小田村 四反」とみえ、「地頭女子等」「女子分」と注記があり、田地の内訳は「二反奈良弥二郎妻女」「一反伊佐十郎妻女」「一反箕田女子分」である。地頭は大恵保の地頭肥塚三郎入道の没後跡地を七人で分領したうちの三人であるが、三郎入道の女子であろう。ただし一反・二反では地頭職として意味をもたなかったはずで、化粧料といったものであろう。

上小田村
かみおだむら

[現在地名]焼津市三和みわ

本中根ほんなかね村の東に位置し、栃山とちやま川の左岸に立地する。志太しだ郡に属する。文亀二年(一五〇二)六月吉日の恵順道者職売券(橋村家文書)によると、伊勢御師恵順から同御師橋村八郎大夫へ売渡された道者職のなかに「上小田村里一円」があり、旦那として「村松六郎さへもん殿、二郎ゑもん入道殿」がいた。

寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳では高三七石余で、ほかに永荒引として二四二石余が記される。

上小田村
かみおだむら

[現在地名]玉名市上小田

東に禿石かむろ(二一九・四メートル)西境を菊池川が南流し、北は白石しらいし村・うけ(現玉名郡菊水町)、南は山部田やまべた村・下小田村と接する。建武五年(一三三八)三月七日の少弐頼尚知行預ケ状案(詫摩文書)葦北あしきた庄内野津彦太郎などの跡として「上小田」があり、兵粮料所として詫磨宗直の一族に預け置かれている。天文(一五三二―五五)頃には清田氏が所領とし、同二一年六月七日に「津々良跡上小田九町分」は大友氏から清田宗甫に打渡されている(「大友氏奉行人連署打渡状写」清田文書)

上小田村
かみおだむら

[現在地名]小野市小田町

下小田村の東に位置し、東条とうじよう両岸低地に集落を形成する。耕地は両岸の丘陵縁辺部まで広がる。右岸集落は西の加古川流域の村々と東条谷・丹波山城を結ぶ街道筋に立地し、交通の要衝であったところから近世町場の観を呈している。江戸時代初期は下小田村と合せて小田村と称したが、延宝七年(一六七九)以前に小田村が上・下に分村していた。元禄郷帳に村名がみえ、高五七六石余、「古ハ小田村」の肩書がある。領主の変遷は享保五年(一七二〇)幕府領となるまでは浮坂うきさか村と同じ。寛延二年(一七四九)以降姫路藩領となる(寛延四年「酒井忠恭領知目録」酒井家史料など)

上小田村
かみおだむら

[現在地名]福知山市字上小田

由良川の支流まき川下流に沿い、村内で牧川に田和たわ川が合流する。

江戸初期には小田村一村であったが、「寛文印知集」では上小田村・下小田村と分記される。寺社方覚帳(威光寺文書)に「小田村 小田村支下小田村」とあり、分裂過程を表している。「丹波志」に「上小田村 右同(福知山領) 大身ト云 野篠 スミシヨ 宮地 小山 高六百五十二石 百戸余」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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