上戸村(読み)あがつとむら

日本歴史地名大系 「上戸村」の解説

上戸村
あがつとむら

[現在地名]伊那市大字西箕輪にしみのわ 上戸

蔵鹿ぞうろく山の南、御射山みさやま山麓の傾斜地に開けた村。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村位は中、村高は「八拾八石壱斗七升 上戸村」とある。

天保四年(一八三三)の「箕輪記」付録に、「上戸も神戸にて上と神と同訓にて転し、また其訓を転してあがつとといふ、これみな神事より出たる名なり、尚深くたつぬへし」とある。また元文六年(一七四一)成立の「信州伊奈郡郷村鑑」には「上戸あげつと」とある。

水の乏しい村で耕地大部分畑地で、水田は堤(溜池)によってわずかに営まれていた。明治五年(一八七二)筑摩ちくま県属本山盛徳に請願し、権兵衛ごんべえ峠の頂上より一二キロも奥地の木曾谷側の現木曾郡楢川ならかわ村のしら川の水を引き、峠の頂上よりこれを小沢おざわ川の上流である北沢きたざわ川に落して合水し、更に北沢地籍から新井筋しんいすじを掘り立てて取り入れ、与地よちの東南を経て中条なかじよう・上戸地籍に引水することに成功した。

上戸村
うわどむら

[現在地名]川越市上戸・上戸新町うわどしんまち

的場まとば村の北東、東を入間いるま川、西を小畔こあぜ川に挟まれた低地および台地に立地。高麗こま郡に属し、上ハ戸とも記した。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の新田又七郎の所領として「弐拾貫三百文 河越卅三郷上戸」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。近世の検地は慶安元年(一六四八)に行われた(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、畑高二〇三石余、ほかに野銭永二五〇文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高一六八石余、反別畑三五町二反余。

上戸村
わどむら

[現在地名]牛堀町上戸

北利根川(常陸利根川)左岸の台地上にあり、西は牛堀村、北は島崎しまざき村。中世は木田見きたみ郷に属し、長国ちようこく寺鐘銘に「木田見荘上戸村」とある。鎌倉時代から戦国末期まで島崎城主の支配下にあり、「水府志料」に「屋敷跡、台上戸坪の内に大平屋敷と唱堀土手の跡あり。島崎左衛門尉家老大平内膳と云人の居所なりといふ」と記される。

上戸村
かみとむら

[現在地名]幸手市戸島としま

吉野よしの村の東に位置する。南は杉戸すぎと宿・大島おおしま新田(現杉戸町)、東は安戸やすど村。渡良瀬わたらせ川の古い流路跡が形成する自然堤防の微高地と後背低湿地からなる。葛飾郡幸手領に属した(風土記稿)。慶長六年(一六〇一)奥州仙台伊達家の久喜鷹場に指定された(貞享元年「久喜鷹場村数覚」伊達家文書)。田園簿では田一四〇石余・畑三六石余で幕府領。元禄八年(一六九五)武蔵国幕府領総検地の一環として検地が実施された(「風土記稿」など)。元禄郷帳では高二三〇石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本竹本領。「風土記稿」では旗本三宅領・同森川領・同竹本領で、この三給のまま幕末に至る(改革組合取調書など)

上戸村
うわどむら

[現在地名]織田町上戸

鯖江街道に沿い、東は境野さかいの(現朝日町)、西は織田村、南と北は山地が迫る。享禄元年(一五二八)一一月二八日付織田寺々庫収納田数帳(劔神社文書)に「惣社家細分」として「八斗 上戸ニ在之 九月十日於神前御供料」「壱斗五升 権ノ祝給恩 上戸ノ掃部」「壱石五斗 此内五斗権祝方ヘ アメ田 七月十九日上戸川ヘ社家廿五人御供之魚取ニ出候時入用」と記され、中世はつるぎ大明神領に含まれていた。なお上戸川とあるのは村内を流れる天王てんのう川である。

天正五年(一五七七)柴田勝家は検地のうえ改めて大明神に神領を寄進するが(「丹生郡誌」所収勝家寄進状)、同年四月五日付寄進地目録(劔神社文書)によると上戸の九九・六五八石が大明神領になっている。

上戸村
じようごむら

[現在地名]各務原市上戸町・三井山町みいやまちようなど

木曾川右岸、三井山の南に位置する。東は山脇やまわき村、南は羽栗はぐり上中屋かみなかや村。旧高旧領取調帳に上戸村とみえ、高一四二石余。幕末期に北の三井村から分村したと考えられ、旗本坪内の内分三井坪内領(各務原市史)。しかし明治大学刑事博物館本元禄郷帳に「下中屋村之内 上戸村」とみえ、下中屋村の枝郷とも考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報