三井村
みいむら
[現在地名]光市大字三井・岩狩町
北は大河内(現熊毛郡熊毛町)、西は河内(現下松市)、東は立野、東南は島田、南西は浅江の各村と接する。北西に烏帽子岳がそびえ、村の南東部を北東から南西に向かって島田川が流れる。
地名は観応二年(一三五一)八月の賀茂神社文書に「三井村賀茂修理田四反半事」とみえるのが早い。また文明一七年(一四八五)七月の興隆寺文書に「周防国熊毛郡三井村」とある。明応二年(一四九三)の賀茂神社文書によると、
<資料は省略されています>
とあり、中世、山城の賀茂社の闢雲院領であったことがわかる。
三井村
みいむら
[現在地名]津久井町三井
南に相模川が流れ、対岸は太井村・中野村・又野村・三ヶ木村。東は中沢村(現城山町)、西は千木良村(現相模湖町)、北は峰境に武蔵国多摩郡上椚田村(現東京都八王子市)で、河岸段丘上の村。小田原衆所領役帳に内藤左近将監「三拾五貫文 東郡三井村」とあり、天正九年(一五八一)の相州津久井之内三井村御地詰帳(高城文書)に二三貫余とある。
近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領に復した。
三井村
みいむら
[現在地名]寝屋川市
美井町・
美井元町・
三井南町・
三井が丘一―五丁目・
境橋町・
末広町・
成田町・成田〈
西町・
東町・
南町・
東が丘〉・
東香里園町
枚方丘陵の南部に位置する。最高所は東部にある標高六八メートルの石塚峯、西部の山麓斜面に集落があり西境を枚方道(河内街道)が通る。茨田郡に属し、西は田井村。古墳時代後期の三井南遺跡がある。奈良時代に行基が掘ったと伝える三ッ井筒があったといわれ、村名はこれに由来するという(「三井村由来書」本厳寺文書)。
三井村
みついむら
[現在地名]望月町三井
望月宿南西の丘陵地に位置し、茂田井村(現望月町茂田井・立科町茂田井)・小平村・高呂村(ともに現望月町)に接する。天正二年(一五七四)の大井文書に平賀一三郷内「三井郷」とあり、同六年の上諏訪大宮同前宮造宮帳には志津田郷内として「三井惣領分」「三井之郷北殿分」「宮沢分」「越之分」とある。
佐久が徳川の手に帰してより所領は変転し、元禄一五年(一七〇二)松平又四郎領(下県陣屋)、明和二年(一七六五)より幕府領となる。その間、慶安四年(一六五一)村高の三分の一(八三石余)は禰津領となった。
三井村
みいむら
[現在地名]斑鳩町大字三井・岡本
法隆寺村の東北、法輪寺のある村。三井は御井とも記し、法輪寺旧境内にあった三つの井にちなむ地名である。「和名抄」平群郡の夜麻郷の地。元来は法輪寺、すなわち三井寺の所領であったが、のちに興福寺一乗院領となり、さらに大乗院領に移ったらしい。
文禄検地の村高は四一六・五七石。検地奉行は牧野伝蔵。慶長六年(一六〇一)竜田藩(片桐且元)領。寛永一五年(一六三八)幕府領に編入された。
竜田陣屋(→竜田城跡)の構築に伴い法隆寺の裏山が乱伐され、耕地への用水確保のため溜池の築造が相次いだ。近世まであった濁池・片岸池のほか、慶長八年東田池・明見池、同一〇年道上明見池、うち谷池・平野池・足谷池、同一五年くるす池ほか一ヵ所、寛永元年新坊池・山田池、同七年はこのめ池、同一三年五ヶ村池(大池)などが掘られた(延宝七年大和国平群郡三井村検地帳)。
三井村
みいむら
[現在地名]各務原市三井町・三井東町・三井北町・三井山町・金属団地など
各務原台地南西端の台地下、木曾川の氾濫原に位置する。各務郡に属し、北・東は更木八ヵ村入会地、南は大佐野村・上戸村。南東部に三井山があり、三井池から流れ出る三井川が西の小佐野村との境をなす。同川右岸に御井神社が鎮座し、集落はその周辺に集中する。「和名抄」にみえる各務郡七郷(東急本による)のうちの三井郷の遺称地とされる。
三井村
みいむら
[現在地名]多度津町三井
青木村の南に位置する。古代三井郷の遺称地。また一説では「延喜式」兵部省にみえる伝馬四疋を置いた南海道の甕井駅に比定される。近世には南北に多度津・金毘羅街道が抜け、正八幡宮の馬場先で伊予街道と交差する。延応元年(一二三九)二月八日の官宣旨(高野山文書)に記す、紀州高野山一心院領仲村郷の北限に三井郷がみえる。また天文一四年(一五四五)七月吉日の道者職売券(来田文書)にみえる「見井の里」は当地のことか。寛永国絵図には三井郷と記され、同郷や青木村などを含んだ三井郷は高三千三六九石余とある。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では三井村とあって高五一八石余。明和八年(一七七一)の「多度津藩記録」によると五四石余が川成などで永捨りとされ生高六〇〇石余、田畝四二町五反余・畑畝一町八反余・居屋敷三町三反余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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