上江洲村
ういーじむら
[現在地名]久米島町
上江洲・
大原 具志川間切の中央に位置し、北は山里村、南は西銘村。ウィージと発音する。村内大原は尚元王一六年(一五七一)大島征伐に出征して軍功をあげた儀間村の赤嶺と山城村(仲里間切)の宇栄比屋らに賞として与えられたという(球陽)。記載内容は慶長検地当時のものと推定されている西銘村名寄帳(上江洲家文書)に名請人として上江洲親雲上・上江洲にや、はる名に上江洲・ふそく(富祖久)・かさせ(加佐瀬)・かない(金内)などの当村内の地名がみえ、もと西銘村と混在していたとみられる。康熙五二年(一七一三)一二月、西銘村・上江洲村から出火、人家一一六戸が焼失。翌年両村の二三戸が西銘村の西方の久間地原へ移されたという(美済姓家譜)。雍正六年(一七二八)西銘・上江洲・山里など八ヵ村のために用水を引いたが、指揮した具志川間切の役人らのうち、「大掟上江洲」も報奨されている(球陽)。
上江洲村
いーじむら
[現在地名]具志川市上江洲・塩屋
大田村の西にあり、北は田場村。南に中城湾が眺望できる上江洲バンタがある。「おもろさうし」巻一六の四六に「一 おゑす とよみくに(上江洲、豊み国)/御さけや いちへみとしよる(御酒は泉にぞする)/又 おゑす きゝやれくに(上江洲、聞かれた国)/まみきや いちへみとしよる(真神酒は泉にぞする)」とある。酒や神酒が泉のように無尽蔵と謡う。豊穣を願う底意である。絵図郷村帳では上江洲村と記される。琉球国高究帳では高頭二三一石余、うち田一一〇石余・畠一二〇石余。集落は初め古島という地にあり、村立ては古琉球期にさかのぼるといわれ、第一尚氏王統最後の尚徳王の三男がこの地に住んだと伝えられる。一八世紀後期ないし一九世紀に現在地に移転したといわれ、集落は区画された碁盤目状になっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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